松岡外相の訪欧とスタインハート工作
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「日米交渉」の記事における「松岡外相の訪欧とスタインハート工作」の解説
他方、松岡外相は自らが進める四国協商(三国同盟+ソ連)構想の実現、日ソ国交の調整などを目的に3月12日から4月22日にかけてソ連、同盟国のドイツとイタリアを訪れていた。 もっとも、四国協商に関しては、前年に行われた独ソ間の交渉が決裂していたため、ドイツ側は松岡の思惑とは異なり、四国協商の可能性を強く否定した(ヒトラーはすでに対ソ攻撃を決意し、バルバロッサ作戦を極秘裏に命令していた)。ドイツ側が要請したのは、日本のシンガポール攻撃、すなわち対英参戦であり、イギリスの敗北は時間の問題である、日本の軍事行動はアメリカの参戦をも防げると執拗であったが、松岡がシンガポール攻撃の言質を与えることはなかった。 一方、ソ連との交渉は4月13日の日ソ中立条約調印で結実した。難航した交渉をまとめた松岡は、日ソ接近により日本の国際的地位を強化し、来る対米交渉へ向けて「力の威圧」による外交の道筋をつけたのであった(ハル国務長官が日米交渉を開始した背景には、この日ソ中立条約の威力があったとの指摘もある)。その後、松岡は日独伊ソ四国の圧力で、アメリカに蔣介石政権援助を停止させ、支那事変はあくまで日中間で解決するという方針を追求することになるが、これはアメリカの仲介によって支那事変を解決するという「日米諒解案」の構想とは相容れないものであった。 また、松岡は訪欧中に日米交渉の布石として、駐ソ米国大使スタインハートと会談し、ルーズベルト大統領への伝言を依頼していた(松岡がウォルシュ、ドラウトを通じた民間ルートを忌避し、正規の外交ルートを採用した背景には、民間人を通じた日中和平工作(銭永銘工作など)の失敗が指摘されている)。往路と帰路に行われた二度の会談と松岡の「厳私信」の手紙の内容を摘記すると以下のようになる。 日本はシンガポールを含め、オランダ、英国、米国の領土を攻撃しない 日本は米国と開戦する意図はない 日米戦争は極東の共産化をもたらす 蔣介石が公正で正当な和平を受諾しないならば、大統領はアメリカの援助を打ち切ると告げるべきである ゴム、スズ、石油などで米国が南方諸国と貿易ができることを保証する 中国において米国の権益を侵しているような誤りがあれば日中戦争終結後賠償する 日本は三国同盟の義務を守る 日本は米国と戦争する義務を有していないが、米国がドイツに宣戦すれば事態は変わるかもしれない 松岡は東南アジアの安全の保証と中国の問題を取引しようとしたのではないかと思われる。また、3月14日の野村大使とルーズベルトの最初の正式会談では、ルーズベルトが三国同盟への強い懸念を表明していたが、松岡は三国同盟に基づく対米参戦を示唆して、米国を牽制した。これらの内容はスタインハートからハルに報告されたが、ハルもルーズベルトもさしたる関心を示すことはなく、松岡の対米工作は空振りに終わることになる。
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