東部地域と西部地域の連合国軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 03:00 UTC 版)
「ヒンメロート覚書」の記事における「東部地域と西部地域の連合国軍」の解説
これらの背景には第二次世界大戦戦勝国の影響力が絶大であった。 西側の様々な推定によれば1950年の赤軍は国境周辺に175個師団、30個の防空および砲兵師団、25,000から60,000輌の戦車が存在しているとされた。駐独ソ連軍は1個グループに6,000輌の戦車、22個師団で構成されると計算され、6から9個の防空または砲兵師団が付属するとみられた。東ドイツ国内には328,000人が駐留していると目され、この内270,000人の地上戦力が侵攻作戦に投入されると見られた。一方、西側の連合軍は1945年のヨーロッパでの戦争終結後に急速に戦力は削減されていた。当時、西側諸国で最も強力な現役の戦闘部隊はインドシナ戦争に投入されていた。1950年、ドイツ駐留の米英仏軍は約17万人でその多くは占領行政を遂行することに特化しており、戦闘任務には不適であった。さらに、駐留軍の大半の装備は旧式化しつつあった。西ドイツ政府の評価によれば戦闘任務に耐えうる駐留連合軍部隊は米英2個師団、仏1個師団弱とみられていた。連合国軍本国にはドイツでの戦役に対応できる緊急展開用の部隊はほとんど準備されていなかった。 航空戦力に対する評価については緊急展開性が求められたためさらに厳しく、ソ連空軍と海軍は5,000機のジェット機を含む約20,000機を配備しているとされ、西側は極めて劣勢であると見られていた。 海洋戦力については東側に比べて優越していると評価されたものの、ソ連海軍が保有する約250隻の潜水艦については西ヨーロッパ周辺海域での通商破壊任務に投入されると見られ、一定の脅威があると評価された。 核兵器については1945年にアメリカ合衆国が開発して以来、独占所有しており従来優勢と見られていたソ連軍に対して十分な保護を与える担保となっていた。しかし、1949年のソ連初の核実験によりこの優勢は崩された。これにより近い将来ソ連はアメリカ合衆国の戦力を凌駕すると予見された。ソ連の在来戦力は西ヨーロッパの脅威に変わった。西側の評価によればソ連は大西洋へ到達可能な攻撃が可能と見られた。特に、西ドイツは危険に晒され連合軍はライン川まで撤退し、西ドイツ国土の大半は一時的に失陥すると見られた。朝鮮戦争勃発後その驚異は現実味を帯び、東ドイツ人民警察が朝鮮戦線における奇襲攻撃により始まったのと同様な代理戦争を実行可能かどうかが脅威の争点となった。アデナウアー首相は両方の質問に対して異なる評価をした。西側では想定されうる西ドイツに対する攻撃方法としては東ドイツ人民警察による初動が見込まれ、それに続きソ連軍による侵攻があるとされた。このような作戦に投入できるように1952年までに人民警察は人民軍に改編される。また。1952年までには通常戦力を補強する核兵器問題が予想された。このため対応する時間的猶予は2年間しか残されていなかった。
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