東部地域の粛清とは? わかりやすく解説

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東部地域の粛清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 16:03 UTC 版)

ソー・ピム」の記事における「東部地域の粛清」の解説

ソー・ピム1978年3月には腸を患う同時に皮膚病にも苦しみプノンペンの「四月十七日病院」で療養していた。退院後はムオル・サンバット(別名、ニエム・ロス)北西部地域書記とともに北西部訪れたが、この頃西部地域書記チュー・チェトが逮捕されS-21収容された。チェト拷問を受け、ソー・ピムベトナムの手組んでクーデター計画していたと供述した。 さらに3月から4月にかけて、東部地域400人以上の幹部逮捕されS-21へと送られた。4月には、東部地域駐屯していた中部地域軍2つ師団司令官逮捕された。 カンボジア研究者ベン・キアナンによればソー・ピムは党の紀律に従うべきとの信念と、こうした粛清革命本質に背くという考えとの板挟みとなり、身動き取れなくなっていた。しかし同じカンボジア研究者スティーヴン・ヘダーは、ソー・ピム自身生き延びるために、ポル・ポト取り引きして軍幹部粛清したとみている。 その後ピムは再び健康を害し4月から5月初旬までプノンペン病院療養していたが、5月にはポル・ポトヌオン・チアソン・セン、および記録係としてキュー・サムファン参加した秘密会合が開かれ東部地域の党軍幹部多く殺害することを決定したピム不在中の同年5月、まずケ・ポクが東部地域の軍幹部数百人を「会議のため」と称して招集し武器取り上げて拘束すると、重要人物S-21へと送り残り処刑した5月半ばピムが戻ると、ポクはさらに彼も「会議」招集した。 ケ・ポクの意図調べるため、ピムはまず護衛派遣したが、戻らなかった。次に甥のチョンを含む2人特使派遣したが、そのまま消え失せた。そして5月23日、かつてのポル・ポト弟分であり、東部地域事務所所長ソク・ノールを派遣したが、S-21へと直行した。 そして5月24日、ついに東部地域本部制圧作戦開始され、4個師団2万8千人投入された。国道1号線からはソン・セン軍が侵攻し24日夜にスバイリエン州東部地域第3師団攻撃しその後第5師団攻撃した国道7号線からはケ・ポク軍が侵攻し第4師団攻撃した5月25日未明、ケ・ポク軍はコンポンチャム州スオン東部地域本部09」を奇襲したが、この時ソー・ピムは約20キロ南のチュクサに視察中であり、兵站担当のマオ・ポクが本部防衛指揮した。 しかし、その圧倒的兵力差から東部地域軍3個師団壊滅し投降した兵士直ち殺害され生き残った部隊ジャングル入りゲリラ戦応戦した。それも6月タ・モク南西地域軍合流したことで、7月には戦闘下火となり、住民虐殺された。東部地域では10万人以上が殺されたと推定され、さらに人口3分の1近く西部強制移住させられそのうち半数処刑飢え病気死亡した

※この「東部地域の粛清」の解説は、「ソー・ピム」の解説の一部です。
「東部地域の粛清」を含む「ソー・ピム」の記事については、「ソー・ピム」の概要を参照ください。

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