東亞合成初代社長就任
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駒吉率いる矢作水力では、天竜川水系における電源開発実施に際し、開発した電力を自家利用して窒素工業事業を立ち上げる方針を定めた。多量の電力を投じた電気分解で原料水素を生成し、次いでアンモニアを合成、そこから硫酸アンモニウム(硫安)・硝酸を製造する、という工程からなる事業である。工場建設中の1933年5月、化学事業は資本金300万円の子会社・矢作工業(第一次)に移される。駒吉は同社社長も兼任した。矢作工業は1933年末からアンモニア合成に着手、翌年から順次硫安・硝酸の製造を始めた。 一方のソーダ事業では、1930年代に入ると好況の波に乗って名古屋港の昭和曹達工場において増産を重ねたのに加え、昭和曹達の姉妹会社2社を新設した。一つは横浜市鶴見区での新工場建設のため1934年(昭和9年)5月資本金150万円で設立した鶴見曹達、もう一つは香川県綾歌郡坂出町(現・坂出市)での新工場建設のため翌1935年(昭和10年)5月資本金150万円で設立した四国曹達である。両社とも駒吉が社長を兼ねた。鶴見工場は1935年4月、坂出工場は1936年4月にそれぞれ竣工している。 日中戦争勃発を機に硫安事業と電気事業に対する国家統制が強化されたことに伴い、1940年(昭和15年)3月に矢作水力は矢作工業を合併した。続いて同年10月31日付で矢作水力の経営陣異動があり、副社長の成瀬正忠(元白山水力社長)が第3代社長に就任し、駒吉は初代会長に就任した。しかしその1年半後の1942年(昭和17年)4月、電気事業に関する国家統制の深度化によって、矢作水力は国策会社日本発送電および中部配電へと電気事業を出資して会社解散に至る。解散に際し化学工業部門については再度独立させる方針が採られ、同年3月31日付で矢作工業(第二次)が新設された。駒吉は2か月後の5月30日付で矢作工業の取締役社長に就任している。戦時下の影響はソーダ事業にも及んでおり、翌6月、事業効率化のため昭和曹達と鶴見曹達・四国曹達の合併が実施された。 太平洋戦争の戦局が悪化しつつあった1944年(昭和19年)4月、限られた資金・資材を活用し一層の増産を図るべく、福澤系の矢作工業・昭和曹達と三井化学工業系の北海曹達・レーヨン曹達(両社とも富山県伏木に工場設置)の4社合併が決定。7月17日付で合併が成立し、存続会社の矢作工業が社名を改めることで、ソーダ工業・窒素工業の両部門を擁する資本金4088万円の化学メーカー「東亞合成化学工業」(現・東亞合成)が発足した。東亞合成化学工業の経営陣には、株式の4分の1を持つ三井化学工業から荘原和作が会長に就任し、駒吉は矢作工業から引き続いて社長を務めることとなった。 東亞合成初代社長に就任した駒吉であったが、会社発足のころから体調を崩しており、半年後の11月29日に実施された取締役改選を機に社長から退いた。以後療養生活を送るが、翌1945年(昭和20年)3月18日、神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の別邸で死去した。満54歳没。死去時まで東亞合成取締役には在職していた。
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