東亞合成時代
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1944年(昭和19年)7月、福澤系の第二次矢作工業・昭和曹達と三井化学系のソーダ会社2社の合併により、アンモニア工業・ソーダ工業の双方を擁する化学メーカー東亞合成化学工業株式会社(現・東亞合成)が発足した。新会社の役員は合併会社4社から選ばれ、社長には福澤駒吉が続投したが、久留島は役員から外れた。矢作水力の清算事務を終えると実業界から引退し、静岡県三島市へと移住、農業を営んだ。 太平洋戦争終戦後の1948年(昭和23年)、請われて東亞合成化学工業に相談役として復帰。1950年(昭和25年)8月には取締役に就任し、さらに会長海東要造(元中部配電社長)の死去に伴い1953年(昭和28年)9月23日より東亞合成化学工業の第3代取締役会長に昇格した。その後5年間、海東時代から社長を務める永滝松之輔とともに同社の経営にあたる。久留島について、1966年に発行された社史では戦後期の社礎確立に尽力し質実な社風育成にあたった、と評している。 1958年(昭和33年)2月28日、任期満了につき東亞合成化学工業の取締役会長から退いた。19年後の1977年(昭和52年)10月2日、老衰のため三島市内の自宅で死去した。91歳没。
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