東シベリアの統治
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「ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー」の記事における「東シベリアの統治」の解説
1847年エニセイ県知事兼東シベリア総督に任命される。東シベリア総督職は皇帝が直接任命する職であり、シベリアの東半分からアラスカにまでまたがる広範囲の地域を管轄していた。このとき、ムラヴィヨフは38歳であったため、このような年齢の人物を総督に任命することに対して賛否の声が巻き起こった。ムラヴィヨフの総督としての最初の行動は役人による公金の横領をやめさせることだった。彼はまた、シベリアや極東の先住民が学校でロシア語を習うよう命令した。彼はシベリアに流された政治的亡命者たちも利用しながらアムール川北部地域への探検や植民も推進した(例えば、ムラヴィヨフの親類であり当時トムスクに流されていた無政府主義者ミハイル・バクーニンは、ムラヴィヨフに招かれイルクーツクで働いた)。ムラヴィヨフのもとにはこうしたロシア帝国の不満分子や流刑者などが集まり、政府の警戒も招くことになる。彼の行動のほとんどは、極東での商取引を拡大させることを目的としていた。宗教を地元先住民の管理のための強力な手段とみた彼は、キリスト教聖堂の新築を支援したほか、シャーマニズムや仏教など地元の宗教に対しても支援を行った。 1689年の清とのネルチンスク条約で、ロシアはアムール川の航行権を失っていた。しかし、清国はアムール川最下流の河口部の航行権については主張していなかった。アムール河口部を狙うムラヴィヨフに対し、1848年革命の余波が残るヨーロッパ情勢に忙殺されていた首都サンクトペテルブルクの外交官僚たちは、中露関係まで悪化することを恐れて強く抵抗した。にもかかわらず、ムラヴィヨフは清に対してアムールへの権利を主張するなど攻撃的な政策を執ることに固執した。ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイによるアムール川流域やサハリンへの探検をロシア政府に認可させた。1850年から1853年にかけて、ムラヴィヨフはいくつかの探検隊をアムール川河口およびサハリンに対して送り、ニコラエフスクをはじめとするロシアの前哨がこれらの地に設立された。これは政府内で議論を呼び、前哨の放棄やムラヴィヨフ解任も取りざたされたが、ムラヴィヨフの皇帝に対する請願によって前哨設置は一転して認可され、ムラヴィヨフも地位を守った。 1853年12月31日(ユリウス暦1854年1月11日)、皇帝ニコライ1世はムラヴィヨフに、アムール川沿いに国境を確立することを清国と交渉する権利、およびアムール河口に派兵する権利を与えた。1854年から1858年にかけてムラヴィヨフはゲンナジー・ネヴェリスコイのアムール川探検を後援してこの目的を達成しようとした。 1854年5月最初の探検が行われた。アムール上流のロシア領アルグン川から、蒸気船に率いられた77隻のはしけやいかだによる船隊がアムールを河口に向けて出発した。船隊の一部はそのままオホーツク海を渡ってカムチャツカ半島のアバチャ湾へと送られた。クリミア戦争の余波により、太平洋側のアバチャ湾でも英仏連合軍による攻撃が迫っており、砲兵隊が半島を守るため設置されていた。ムラヴィヨフによる補給により、これらの砲兵隊はペトロパブロフスクを英仏軍の攻撃から守るのに大きな役割を果たした。 1855年の探検隊は最初のロシア人植民者をアムール川河口に送った。ムラヴィヨフはこの頃、英仏に対抗するアメリカ合衆国の支援を引き入れ、清国との交渉を開始した。
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