暫定政権の組織
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「ジェファーソン・デイヴィス」の記事における「暫定政権の組織」の解説
辞任の4日後、デイヴィスは南軍の義勇軍少将としてミシシッピ州軍の指揮官に任命され、これが連合国政府との最初の明確な関わりとなった。1861年2月9日、アラバマ州のモンゴメリーで暫定的に設置された「連合国憲法制定会議」(実質的なアメリカ連合国の準備政府)は、ジェファーソン・デイヴィスをアメリカ連合国の暫定大統領に指名すると発表した。デイヴィス個人は南部分離と内戦に強く反対する立場であったが、各州の自治権を認める分権論者としてミシシッピ州全体の決定に従い、連邦議会で同州の連邦離脱を宣言する役目を担ったという経緯があった。故に分離政府の元首に指名されたことに対しても、暫く回答を留保するなど慎重な姿勢を見せたが、最終的に1861年2月18日に要請を受託して連合国暫定大統領へ就任した。 暫定大統領就任後、デイヴィスは連合国と合衆国との協議の場を設けるべく、議会の許可を得て外交使節団を結成した。1861年3月、外交使節団はサムター要塞の戦いの前にワシントンD.C.を訪れる手筈になっており、南部諸州に存在する連邦政府直轄資産を全て接収するのではなく国費から代価を払って合法的に取得することを申し出るなどして、予定では可能な限り合衆国からの平和的離脱を目指すことになっていた。ただし、外交使節団は南部諸州の「再統合」を交渉の対象とすることが許されておらず、合衆国下での自治権拡大で妥結することを望んでいた合衆国政府との協議成立は期待できなかった。 またデイヴィス自身も融和政策の一方でP・G・T・ボーリガード大将を南軍総司令官に指名し、密かに開戦に向けた準備を始めさせていた。ボーリガード大将はサウスカロライナ州のチャールストンに軍を集結させると、南部側の国境要塞で唯一南軍への合流を拒否していたサムター要塞の武力接収を政府に提案した。デイヴィスは連合国暫定大統領として、サムター要塞攻撃を許可する政府の閣議決定を承認している。1861年4月12日、サムター要塞に対して南軍が砲撃を開始、実質的に両国は内戦状態に突入した(南北戦争)。 開戦から程なく中立を維持していたバージニア州がアメリカ連合国に合流すると、デイヴィスは連合国の首都をモンゴメリーからより北方となるバージニア州リッチモンドに遷都した。建設されていたバージニア州議会議事堂が連合国政府の新しい連合国議会議事堂として使用され、デイヴィスが執務室を構えた議事堂から2ブロック北の古典主義式の邸宅は連合国政府のホワイトハウスと呼ばれた。1861年11月6日、連合国議会はデイヴィスを任期6年の初代大統領に選出、1862年2月22日に大統領就任式が行われた。これにより正式にアメリカ連合国が発足し、デイヴィスも名実共に新国家の初代元首となった。
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