暫定政府の成立とコリンズの死
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「マイケル・コリンズ (政治家)」の記事における「暫定政府の成立とコリンズの死」の解説
1919年、ドイル・エアランによって制定されたドイル憲法によってドイル・エアランの存続が決定した。デ・ヴァレラは大統領職を退き、再選にうってでた。が、同じく出馬したアーサー・グリフィスに得票数で敗れ、大統領の座を譲ることになった。グリフィスは共和国大統領と名乗ったデ・ヴァレラと異なり、自らをドイル・エアランの大統領であるとした。しかしこの政体 (Aireacht) は大英帝国の法体系の中では合法的なものではなかった。名目的なものであれ、合法的な議会は依然として南アイルランド庶民院であった。マイケル・コリンズは首相に任命され、アイルランド暫定政府の組閣が行われた。 コリンズは暫定政府の首相であり、同時にグリフィスの共和政府の財務相でもあった。コリンズの首相就任にいたる道のりも複雑であった。大英帝国の法律によって、コリンズはイギリス国王の認可を受けた地位についたことになる。そのため、就任においてイギリスのアイルランド総督フィッツァラン子爵(英語版)に面会して任命を受ける必要が出てきた。 共和主義者の立場からは、コリンズと総督の面会は、コリンズが勝利者としてフィッツァランに会い、イギリスのアイルランド統治の象徴ダブリン城を受け取るという意味合いのものであったが、イギリス側から見れば、コリンズが一段低い立場から総督から任命を受けることにほかならなかった。このような意味づけに違いはあったものの、実際にコリンズは総督と対面し、任命を受けた。逸話として伝えられるところによれば、コリンズは約束の時間に7分遅れて現れたため、総督はこれを責めた。コリンズは「7分くらい待ってもいいじゃないですか。私たちアイルランド人は700年待ちましたよ」と言ったという。 条約反対派はドイルによって認められたこの条約を認めず、イギリスとの交渉を拒否した。彼らはデ・ヴァレラの元に結集して「共和国政府」を名乗り、賛成派との間の内戦に突入した。これがアイルランド内戦である。1922年の中ごろまでに、コリンズは暫定政府の首相とアイルランド国軍(IRA の中の条約賛成派を中心に組織された正規の軍事組織)の司令官を兼任した。あるとき、その任務の一環として故郷のコークに向かうことになった。1922年8月22日、その道中ベール・ナ・ブラフ(英語版)で待ち伏せを受け、銃撃にさらされた。コリンズはそのまま逃げることも出来たが、あえて踏みとどまって応戦することを命じ、流れ弾にあたって命を落とした。まだ31歳の若さであった。
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