暫定政府と分離独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 00:54 UTC 版)
「ジャワハルラール・ネルー」の記事における「暫定政府と分離独立」の解説
第二次世界大戦後、1945年から1946年にかけてインドでは選挙が実施されることとなった。この時、日本軍との戦争協力のため反逆罪として逮捕されたインド国民軍兵士への裁判が行われたが、ネルーはこの裁判で弁護士として彼らの無罪を訴え、国民会議派もそれを争点の一つとした。この選挙において国民会議派は大勝したものの、当時は各宗派別の選挙(分離選挙制)が敷かれており、ムスリム選挙区においてはムハンマド・アリー・ジンナー率いる全インド・ムスリム連盟が議席を独占して、事実上宗派別の二大政党となった。新議会でネルーは、フランス領インドシナやオランダ領インドネシアといった、第二次世界大戦で日本軍が占領していた地域に投入されていたインド植民地軍の撤退を要求し、1946年中にそれは実行されたが、こうした動きはイギリスの植民地政策の前提を掘り崩すものであり、インド独立はこの時点で避けられないものとなった。 イギリスは独立国家像としてヒンドゥーとイスラムの2つの連邦を傘下に収めるインド連邦を提案したもののネルーは拒否し、ここから両派の対立は激化していった。1946年9月には暫定政府が成立してネルーは首班となったが、両派の対立は好転せず、1947年6月には総督ルイス・マウントバッテンが8月15日のインド・パキスタン分離独立を発表し、結局その発表通りにインドとパキスタンは8月15日に分離独立し、ネルーは独立インドの初代首相に就任した。
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