暦法の研究史と小川清彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
『日本書紀』に記載されている暦日に基づいて当時の日本の暦法を再構築しようという試みが具体的に始まるのは江戸時代のことである。渋川春海(1639年生-1715年死)は『日本書紀』の暦についての推算を行い、日本初となる長暦(日本長暦)を作成した。春海は『日本書紀』の暦法は日本固有のものであり神武天皇以降推算されたもので途中2回改暦があったものと想定した。18世紀後半には本居宣長(1730年生-1801年死)が唐暦による推算であろうと述べ、伴信友(1775年生-1848年死)は百済の暦日を用いたものであるとした。 明治・大正期には暦日の研究は目立った進展を見せなかった。画期となったのは昭和初期の東京天文台の天文学者であった小川清彦による研究である。彼は第二次世界大戦前から戦時中にかけて、『日本書紀』に記載されている月朔について、中国から伝わった各種の暦法による推算値との比較を行い、『日本書紀』の暦法が元嘉暦、儀鳳暦であること、その暦日は当時のものではなく後世(8世紀)の偽作であることを明らかにした。小川の分析結果は当初ごく限られた人物の間に少数のコピーで配布されたのみであった。これは近代に入ると『日本書紀』は日本の国家史・国民史の根幹としての地位が与えられるようになり、昭和期に入った頃にはその内容、特に誤りについての批判を行うことには政治的危険を伴ったためである。戦後、小川の業績は広く知られるようになり、現在では定説となっている。 小川が作表した『日本書紀』の暦日と、元嘉暦、儀鳳暦の暦日を示す表を元に、暦法の切り替わりを示す箇所を抽出したものを以下に示す。 『日本書紀』の月朔・閏月と元嘉暦、儀鳳暦の月朔・閏月年西暦換算日本書紀記載の月朔儀鳳暦の月朔元嘉暦の月朔太歳甲寅 -666 11月丙戌 丙戌 丁亥 戊午 -662 6月乙未 乙未 丙申 神武元年 -659 正月庚辰 庚辰 辛巳 垂仁15年 -14 2月乙卯 乙卯 丙辰 垂仁23年 -6 10月乙丑 閏10月乙丑 閏10月乙丑 景行12年 82 9月甲子 甲子 乙丑 成務2年 132 11月癸酉 癸酉 甲戊 仲哀元年 192 閏11月乙卯 閏11月乙卯 閏12月甲申 仲哀9年 200 3月壬申 壬申 癸酉 仁徳87年 399 10月癸未 癸未 甲申 履中5年 404 9月乙酉 閏9月乙酉 閏9月乙酉 安康3年 456 8月甲申 癸未 甲申 雄略4年 460 8月辛卯 庚寅 辛卯 清寧4年 483 閏5月 - 閏6月戊申 閏5月戊寅 欽明31年 570 4月甲申 閏4月甲申 閏4月甲申 舒明2年 630 正月丁卯 閏正月丁卯 正月丁卯 皇極2年 643 (閏7月戊寅)8月戊申 8月戊寅、閏8月戊申 閏7月戊寅、8月戊申 天智6年 667 閏11月丁亥 12月丁亥 閏11月丁亥 この表に示される通り、垂仁23年、履中5年、欽明31年4月の「閏」字が筆写時に脱落したものと仮定した場合、4世紀頃以前の月朔の干支は儀鳳暦に、5世紀頃以降のそれは元嘉暦に一致する。 当時既に『日本書紀』が指し示す紀年が古い時代において信用に足らないことは理解されていたが、儀鳳暦・元嘉暦を用いた小川の推算値と『日本書紀』記載の暦日は比較的高い一致を示した。年代が疑わしいものであるにもかかわらず、暦日の月朔がその疑わしい年代と良く合致することは、『日本書紀』の月朔が同時代史料の記載にあったものを写したのではなく、後世に設定された紀年に合わせて計算されたものであることを意味する。
※この「暦法の研究史と小川清彦」の解説は、「日本書紀」の解説の一部です。
「暦法の研究史と小川清彦」を含む「日本書紀」の記事については、「日本書紀」の概要を参照ください。
- 暦法の研究史と小川清彦のページへのリンク