昭和天皇観戦の逸話とは? わかりやすく解説

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昭和天皇観戦の逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 15:11 UTC 版)

天覧相撲」の記事における「昭和天皇観戦の逸話」の解説

昭和天皇相撲ファンとして知られ観戦時のエピソードも多い。 明治時代末期迪宮当時)・淳宮(のちの秩父宮)・光宮(のちの高松宮)の三兄弟一緒に両国国技館何度本場所観戦した(ただし、即位以前なので天覧ではなく"台覧")。なかでも1912年明治45年5月場所3日目横綱太刀山前頭5目・千年川一戦千年川延々1時間半以上、30数回待った」を繰り返したため(勝負は二突きあっけなく千年川負け)、16時帰還時刻予定大幅に遅れたという。 1964年昭和39年5月場所13日目、戦後10回目天覧相撲初め双眼鏡持参する1971年昭和46年)、相撲協会初場所から、天皇がもっと土俵近く観戦出来るよう蔵前国技館正面桟敷席最前列貴賓席設置したが、宮内庁から警備上の問題中止要請があった。このため5月場所8日目天覧相撲では従来2階貴賓席からの観戦となった結局桟敷席貴賓席使われることはなかった。 1972年昭和47年9月場所8日目天覧相撲において、幕内土俵入りの際力士紹介順序間違えた場内放送気付いた昭和天皇はすぐに武蔵川理事長指摘。このほかにも、決まり手発表聞いた昭和天皇が「今のは○○ではないのか」と言った直後決まり手訂正放送がされたこともあった。 1975年昭和50年5月場所8日目前頭筆頭富士櫻小結麒麟児対戦身を乗り出す天覧相撲用のとっておきの割として重宝され一般客の間でも非常に人気高かった両者対戦中でも特に評価高く天皇絶賛昭和屈指の名勝負として語り継がれている。 1977年昭和52年5月場所8日目天覧相撲から宮内庁長官総務課長らのお供がなくなる。 1978年昭和53年9月場所6日目天覧相撲より結びの一番後の弓取式まで観覧する1988年昭和63年9月場所8日目天覧相撲予定していたが、宮内庁は「陛下発熱のため取り止める」と発表した。従って昭和天皇最後観戦1987年昭和62年5月場所7日目両国国技館)、戦後からちょう40回目天覧相撲だった。なお、昭和天皇1989年昭和64年1月7日崩御しており、本来であれば1月8日(この日より平成元年)より開始する予定とされていた1月場所服喪のため翌1月9日より1日順延する形で行われている。

※この「昭和天皇観戦の逸話」の解説は、「天覧相撲」の解説の一部です。
「昭和天皇観戦の逸話」を含む「天覧相撲」の記事については、「天覧相撲」の概要を参照ください。

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