昭和中期・高度経済成長期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 08:17 UTC 版)
「新潟市の歴史」の記事における「昭和中期・高度経済成長期」の解説
1955年(昭和30年)、新潟大火が発生。1964年(昭和39年)6月、マグニチュード7.5の新潟地震が発生。被害は新潟市の中心部に集中した。地震後、工場の集団移転や住宅団地の郊外化が顕著となり、豊栄(北区)・亀田(江南区)・黒埼(西区)地区などとの一体化が進んでいった。 昭和30〜40年代、煤塵(ばいじん)や水質汚濁など公害が深刻化した。新潟で特に深刻であったのは、天然ガス採取によって発生した新潟島をはじめとする中心部の地盤沈下だった。ゼロメートル地帯が広がり、浸水被害が相次ぎ、海岸の砂浜も消失した。また、阿賀野川流域では有機水銀中毒(新潟水俣病)が発生。1985年(昭和60年)までに690人が患者と認定された。 高度経済成長期は災害からの復興、公害の対策に追われていたが、1963年(昭和38年)に国土開発の一つとし新潟東港の建設が着工。1969年(昭和44年)に開港し、石油備蓄基地・コンテナ埠頭などが整備されて日本海側の貿易中枢港となった。新潟西港はフェリー埠頭などが整備され、商業・流通港となった。 昭和40年代前半、米の生産が需要を上回り、米価抑制と生産調整(減反)が始まった。機械化による省力化や、兼業農家の増加が急速に進んだ。また、園芸作物が注目され、黒埼(西区)の茶豆、白根(南区)の洋ナシなど、多くの園芸産地ができた。 1960年代以降、鳥屋野などでも市街地化が進み、新潟地震以後は市内の国道・鉄道に沿った地区を中心に、市内各地で住宅地開発が進められた。この間、信濃川下流域では1972年に関屋分水路が通水し、信濃川左岸下流域は全方向が川と海に囲まれるようになり、「新潟島」と呼ばれるようになった。 1973年(昭和48年)に新潟空港にハバロフスク線が開設し、北東アジアを中心に国際線が増加。1982年(昭和57年)に上越新幹線が開通。また、1988年(昭和63年)までに関越自動車道・北陸自動車道が全線開通したことにより、高速交通の結節が進んだ。
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