旧約聖書時代
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フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第XX巻10章には大祭司制について書かれており、それによると「初代アロンから最後のファサノス(ファンニ)まで数えて総勢83名の大祭司がいて、最初の13名は幕屋時代(出エジプト~ソロモンの神殿建設直前)の大祭司、ここからヨサダコス(ヨサダク)までの18名がエルサレムに神殿ができてからバビロニアに滅ぼされて神殿が破壊されるまでの大祭司、その次の15人(ヨシュア~オニアス)が捕囚より帰還してセレウコス朝シリアのアンティオコス王に支配されるまで」としている。 大まかな流れではアロンの死後、アロンの子エルアザル、そして民数記25章にはその子ピネハスの家系が永遠の祭司職の契約を受ける主旨の預言があるが、『サムエル記』の1-4章に登場するサムエルの師であるエリは『ユダヤ古代誌』第V巻9章5節ではピネハスの兄弟イタマルの家系とされているので、何らかの理由で一旦こちらに大祭司の座が移り、その後この一族の大祭司アビヤタルが、ソロモン王即位以前にソロモンの兄弟アドニヤを王に推していたことで即位後存命中でありながら解任された(『列王記』上2:26)所からピネハスの系統のツァドク(ザドク)の家系が以後の大祭司を継承した(イタマルの子孫も全滅したわけではなく『エズラ記』8:1のバビロンからの帰還者として長の名前だけ出てくる)。 その後バビロン捕囚でツァドクの子孫にあたるヨザダクがバビロンに連れていかれるが、この息子のエシュア(ヨシュア)が帰還後の最初の大祭司となり捕囚後のユダヤ政体における政治的指導者になっていて、次のハスモン朝時代を含めて大祭司は君主でもあった。 紀元前175年に、セレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスは大祭司オニアス3世を解任して処刑後、オニアスの息子ではなく(息子のオニアス4世はその後エジプトに逃げてヘリオポリス地方にエルサレム神殿を模した神殿を立ててその大祭司となった。これについては『ユダヤ古代誌』第XII巻などに詳しい説明がある)別の家系のアルキモスを大祭司にしたものの、彼の死後は後継者なしの時代が7年続き、その後マカバイ戦争が起きてユダヤはセレウコス朝の支配を逃れ、ここからは勝者となったハスモン一族が大祭司となり、ヨナタン以降、ハスモン朝の指導者は大祭司を兼ね、祭司支配の絶頂期であった。紀元前104年に即位したアリストブロス1世から紀元前37年に殺害されたアンティゴノスの時代まで、大祭司は王であることを明確に名乗った。 この最後のアンティゴノスは、通常の継承ではなくパルティア王国と手を組んで先代の王兼大祭司であった伯父のヨハネ・ヒルカノス(2世)をクーデターで捉えての即位だったため、降参した伯父を復位を阻止するため彼の耳を削ぎ、このためヒルカノスはクーデターが失敗に終わり、自身が捕らえられたパルティアから解放・帰還した後も大祭司に戻れず、かといって宗主国のローマから王に選ばれたヘロデも全く大祭司と血縁がない以上、自分が大祭司になることができなかったため、彼は外国からアナネルという司祭の家系であった人物を呼び寄せて大祭司に任命した。ところがヒルカノスの娘であるアレクサンドラは自分の息子のアリストブロス(3世)が正当な後継者であると主張したため、ヘロデも一度は譲歩してアナネルを解任させアリストブロスを大祭司に任命させたが、間もなくアリストブロスはヘロデの家のプールで溺死し(表向きは事故とされたが、ヨセフスはヘロデが暗殺させたとしている。このハスモン朝末期からアリストブロス3世の死亡までの詳しい経緯は『ユダヤ古代誌』第XV巻を参照。)、アナネルが一時再任したが、これ以後は完全に大祭司の終身任期が忘れられヘロデの判断で随意に大祭司が変わるようになった。
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