旧約聖書の聖絶の記述に関する史学的評価
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「聖絶」の記事における「旧約聖書の聖絶の記述に関する史学的評価」の解説
自由主義神学的な立場による史学的評価では、聖書の神はイスラエル民族の部族神であり、聖書の記述もその全てが史実とは限らないとする立場にある。また、岩波委員会訳の旧約聖書の補注によれば、古代の戦闘は全てその民族の守護神の闘いでもあったため、闘いに敗れた民族とその所有物はその所有関係が切断され「神無きもの」となって穢れた存在となるが、いわゆる聖戦の法である聖絶は、それを勝利をもたらした自国の守護神に儀礼的に捧げ尽くすことで「神無きもの」が購われ、新たな所有に移すために行なわれる宗教儀礼で、必ずしも敵対異民族を物理的に絶滅させたわけではない、という見解がなされている。 この聖絶という慣習はイスラエルのみならずモアブやアッシリアのような近隣諸国にも古来から共通して見られた宗教儀礼で、それは敗北した敵を単に虐殺することだけでなく、聖なる闘いに関する宗教的規定のひとつであったが、実際にこの規定が適用されたことは現実問題としてかなり稀なことであったと考えられている。というのも、敵対する異民族を聖絶の捧げ物とした場合でも、相手を滅ぼしてもイスラエルの民には物質的には何の利益にもならないため、当然ながら違反者が続出した。また、一民族を全て根絶やしにすることは現実問題としても無理であった。「このように聖絶が不徹底であったため、バアル信仰がイスラエルの中に蔓延り、神の怒りを招いた結果、自分たちは異民族に支配されなければならなかったのだ」という反省及び歴史解釈がイスラエルの中に起こり、バビロン捕囚以後にそのような観点の下に聖書が編纂されたものと考えられている。したがって現在の歴史学では、聖書に書かれた虐殺の記述は歴史を正しく伝えたものではなく、後代のバビロン捕囚前後の時代にイスラエル中心主義の影響で書かれたものとされる。 ちなみにウェーバーも、カナンの地を特別に神聖視する預言者の思想に影響されたユダヤ教の宗派的な発展のみが、儀礼的なタブーにすぎなかった聖絶を殲滅の思想として発展させたとして、そのような特殊な解釈がなされた理由の一つとして「人道的律法」を適用すべき寄留者(出エジプト22:20、新改訳聖書では22:21)が捕囚後のイスラエルに存在しなかったことを挙げている。事実イエスの家系にもモアブ人女性ルツが登場することからも分かる通り、実際の歴史ではユダヤ人はアマレク人、カナン人、ミデヤン人、ペリシテ人、モアブ人、アモン人、エドム人などの近隣諸民族と共存・通婚しており、ユダヤ人の勢力がカナン・シリアで支配的なものとなってイスラエル王国・ユダ王国が建国された際も上記のようなユダヤ人以外の諸民族の共存は許されていた。これらの諸民族はイスラエル王国・ユダ王国の統治の間に徐々にユダヤ人と混血し、吸収されていったものと思われる。
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