旧ゼネラルプロダクツ
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「ゼネラルプロダクツ」の記事における「旧ゼネラルプロダクツ」の解説
ゼネラルプロダクツ(旧ゼネプロ、以下同じ)は、1982年2月14日に大阪で開店した。大学を中途退学した岡田斗司夫が親からの借金で開業し、当初は岡田の実家である有限会社おかだ刺繍の一部門であった。岡田は、1981年に開催された第20回日本SF大会「DAICON3」(ダイコン・スリー)の運営の中心人物であり、大会で販売したガレージキットが完売したことがヒントになっての起業であった。岡田と同様にSFファン活動に入れあげて大学を中退した武田康廣がスタッフとして働いたり、DAICON3で知り合った大学生がガレージキットを製作するなど、大会運営時に培った人脈や技術を基盤にした。 特撮映画の模型やキャラクターをあしらったTシャツなどSF、特撮関連の各種グッズ、DAICON作品のビデオソフトなどを取り扱っていた。正式に版権の許諾を得る形でガレージキットの市場を立ち上げて、ガレージキットの即売会ワンダーフェスティバル(以下ワンフェス)を1985年から主催していた。宣伝においてもアニメ雑誌『アニメック』では「ゼネプロ繁盛記」「ためになるゼネプロ講座」という連載記事を執筆して、無料で全国誌に広告を掲載。ライバルであるガレージキットメーカーの海洋堂に「ゼネプロはPR上手、商売上手」と言わしめた。1983年には情報番組『ズームイン!!朝!』の取材を受けた。レポーターが店内や商品を紹介、店長の岡田も登場した。 自主映画制作のDAICONは、自主映画『八岐之大蛇の逆襲』の制作資金が尽きるとゼネプロが出資するなど、関係は近いものの、一応は別組織であり、DAICONは学生中心で運営されていた。プロとしての映像制作を模索し、ゼネプロから200万円の活動資金を受けた岡田と山賀博之がバンダイをスポンサーに見つけ、アニメ映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を制作するためにアニメ制作会社のガイナックスが設立された。このとき同時にゼネプロもおかだ刺繍から独立化して株式会社化し、ガイナックスの社長には岡田が、ゼネプロの社長には武田が就いた。別会社にした理由は『王立宇宙軍 オネアミスの翼』制作後にガイナックスは解散させる予定だったからである。 東京で活動するガイナックスに対して、ゼネプロは大阪に残って桃谷に店舗を構えて拠点としていた。なお、大阪での店舗は開店当時の初代店舗と、手狭になったために移転した2代目店舗があった。2代目店舗には喫茶スペースが設けられ、ファン同士の交流の場となっていた。しかし、版権許諾やワンフェスのために頻繁に東京と行き来していたことから、1987年に東京・吉祥寺に移転。東京店の店長は後のガイナックスのプロデューサー佐藤裕紀が務めて、「てんちょ」のニックネームの由来ともなった。1989年には編集部門を備え、機動戦士ガンダム専門マンガ雑誌『サイバーコミックス』などを手がけるが失敗に終わり、その後はガレージキットの売れ行きもジリ貧となって直営店も閉店し、1992年1月に主催したワンフェスを最後に翌2月に活動を停止した。自分たちは作品を作る会社であり、他社の版権を借りて商品を作るゼネプロは必要ないというのが理由であった。武田らは完全にガイナックスに合流。ワンフェスの開催権と保持していたガレージキットの原型は懇意にしていた海洋堂に譲渡された。 店名はアメリカのSF作家ラリー・ニーヴンのSF小説『ノウンスペース』シリーズに登場する「パペッティア人」の「ゼネラル・プロダクツ」が由来。店名への使用にあたってはニーヴンの許可を得た。 既述の岡田、武田、佐藤の他、ガイナックス社長だった澤村武伺、玉谷純、岡田和美、植田正治ら後のガイナックスのメンバーが在籍。大阪時代には、小説家の大迫純一が店長を務めた他、漫画家の園田健一は大阪時代に商品開発のアルバイトをしていた。
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