日比谷図書館の再建
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「東京都立図書館」の記事における「日比谷図書館の再建」の解説
「土岐善麿」も参照 日比谷図書館は1949年(昭和24年)に仮設館舎での再開をみたものの、同年の中田邦造の退任以来専任の館長が置かれず、また消防から危険施設との指摘も受けるなど、未だ本格的な復興にはほど遠い状況にあった。1951年(昭和26年)には歌人・国文学者の土岐善麿が館長に就任。当時の東京都では新たな学校教育法下での学校の整備に追われ図書館の再建について顧みられることが少なかった中で、土岐は自ら東京大学で行われた司書講習に参加し、慶應義塾大学客員教授のロバート・L・ギトラーに学ぶなど、日比谷図書館再建に向けて精力的な活動を行った。国立国会図書館長金森徳次郎を通じて安井都知事に日比谷図書館の再建を要請、1952年(昭和27年)には土岐の理解者であった19人の学者、芸術家、文化人、実業家の連名による『東京都立日比谷図書館の再建に関する要望書』が東京都知事、東京都教育委員会、東京都議会議長あてに提出され、日比谷図書館再建の援護となった。昭和28年度予算ではなおも建設調査費が計上されなかったが、土岐の古くからの友人である衆議院議員の安藤正純の協力を得て、1953年(昭和28年)秋には自由党の都議会議員30人余りが日比谷図書館を訪問視察、土岐が再建案を説明する機会を得たことで、翌1954年(昭和29年)から再建に向けた動きが本格化することとなる。2016年(平成28年)現在も日比谷図書文化館として残る三角形の建物は、敷地を無駄なく使うための土岐の着想によるものであり、施設配置の設計には整理課長の林靖一が対応した。林は1955年(昭和30年)に死去、土岐も同年6月退職勧奨を受けたことで、新図書館の建設を待たずして自ら職を辞した。なお、同1955年1月には八王子市立図書館が都に移管され、東京都立八王子図書館となっている。 土岐の後任には行政畑から前東京都教育庁次長の渋谷徳雄が就任。新図書館開設に向けた具体的な計画を推進し、司書の人事制度について一定の道筋を付け、開館直前の1957年(昭和32年)5月まで館長の任にあった。同1957年10月に新図書館が開館し、戦後12年を経てようやく日比谷図書館は復興を遂げたのである。なお、この新図書館の計画段階では大規模な開架式の導入を検討していたものの、検討当時は大規模図書館での開架導入には慎重論が根強く、部分的な開架とせざるを得なかったが、1961年(昭和36年)の増築の頃には開架式の方が望ましいという考え方が普及しており、4階部分の増築にあわせて既存の閲覧室の改善が行われ、開架スペースが拡充された。
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