日比谷女学校
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1939年(昭和14年)9月、会社による職員教育の一環として私立「日比谷女学校」が開設された。入学資格は小学校卒業後直ちに入社したものに限定され、修業年限は3年間、授業は勤務時間外の夜間を利用するものとして、毎日3時間ずつ午後5時半から8時半までとされた。生徒の収容人員は設備の関係上、1学年1学級とされ、1学級の定員は50名であった。 学科目課程は高等女学校の授業科目に準じ、教職員の編成は、石坂泰三社長が校長となり、主事には前東京女子高等師範学校教授富士徳治郎が招聘された。また直接の学校経営には蒼梧会があたり、下記の人々がそれぞれ学校理事、監事及び委員を依嘱された。 理事 稻宮又吉(支配人)、同 矢野一郎(財務部長)、監事 佐久間勝(監査部長)、委員 柿沼稻次郎(総務課長)、同 多田登(文書課長) 翌年の入学希望者は定員の2倍に達したが、教室のスペースの関係上結局抽選をもって入学が許可された。 その後戦争が苛烈となり、本土空襲の激化に対応して、国民学校高等科から大学にいたるあらゆる学校は一斉に1945年(昭和20年)4月から向う1年間授業を停止することになったので当校も自然に授業を停止するのやむなきに至った。戦後1947年(昭和22年)に学制改革により6・3制が実施されるにあたり、入学該当者がなくなったので学校を存続する必要がなくなり廃校となった。
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