日本三代実録の記録
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『日本三代実録』巻十六、貞観十一年六月十五日条から十八年三月九日条。新羅の賊の博多への入寇と、その後の対策該当箇所。 十二月・・・十四日丁酉、遣使者於伊勢大神宮、奉幣。告文曰:「天皇我詔旨止、掛畏岐伊勢乃度會宇治乃五十鈴乃河上乃下都磐根爾大宮柱廣敷立、高天乃原爾千木高知天、稱言竟奉留天照坐皇大神乃廣前爾、恐美恐美毛申賜倍止申久。去六月以來、大宰府度度言上多良久:『新羅賊舟二艘、筑前國那珂郡乃荒津爾到來天豐前國乃貢調船乃絹綿乎掠奪天逃退多利。』又廳樓兵庫等上爾、依有大鳥之恠天卜求爾、鄰國乃兵革之事可在止卜申利。又肥後國爾地震風水乃灾有天、舍宅悉仆顛利、人民多流亡多利。如此之比古來未聞止、故老等毛申止言上多利。然間爾、陸奧國又異常奈留地震之灾言上多利。自餘國國毛、又頗有件灾止言上多利。傳聞、彼新羅人波我日本國止久岐世時與利相敵美來多利。而今入來境內天、奪取調物利天、無懼沮之氣、量其意況爾、兵寇之萌自此而生加、我朝久無軍旅久專忘警多利。兵亂之事、尤可愼恐。然我日本朝波所謂神明之國奈利。神明之助護利賜波、何乃兵寇加可近來岐。況掛毛畏岐皇大神波、我朝乃大祖止御座天、食國乃天下乎照賜比護賜利。然則他國異類乃加侮致亂倍久事乎、何曾聞食天、驚賜比拒卻介賜波須在牟。故是以王-從五位下-弘道王、中臣-雅樂少允-從六位上-大中臣朝臣-冬名等乎差使天、禮代乃大幣帛遠を、忌部-神祇少祐-從六位下-齋部宿禰-伯江加弱肩爾太襁取懸天、持齋令捧持天奉出給布。此狀乎平介久聞食天、假令時世乃禍亂止之天、上件寇賊之事在倍久物奈利止毛、掛毛畏支皇大神國內乃諸神達乎毛唱導岐賜比天、未發向之前爾沮拒排卻賜倍。若賊謀已熟天兵船必來倍久在波、境內爾入賜須天之、逐還漂沒女賜比天、我朝乃神國止畏憚禮來禮留故實乎澆多之失比賜布奈。自此之外爾、假令止之天、夷俘乃造謀叛亂之事、中國乃刀兵賊難之事、又水旱風雨之事、疫癘飢饉之事爾至萬天爾、國家乃大禍、百姓乃深憂止毛可在良牟乎波、皆悉未然之外爾拂卻鎖滅之賜天、天下無躁驚久、國內平安爾鎭護利救助賜比皇御孫命乃御體乎、常磐堅磐爾與天地日月共爾、夜護晝護爾護幸倍矜奉給倍止、恐美恐美毛申賜久止申。」 訓読文十二月・・・十四日丁酉(ひのととり)、使者を伊勢の大神宮に遣はして、幣(みてぐら)を奉らむ。告文に曰ひけらく:「天皇が詔旨と、掛畏(かけまくもかしこ)き伊勢の度会(わたらい)の宇治の五十鈴の河上の下つ磐根(いわね)に大宮柱広敷立(ひろしきたて)、高天の原に千木(ちぎ)高知(たかし)りて、称言竟奉(たたえごとおえまつ)る天照坐皇大神の広前(ひろまえ)に、恐(かしこ)み恐みも申賜(まおしたま)へと申さく。去ぬる六月以来、大宰府度度言上(もお)したらく:『新羅の賊(あた)の舟二艘、筑前国の那珂郡の荒津に到来りて豊前国の貢調の船の絹綿を掠奪ひて逃退たり。』又庁樓(たかどの)兵庫(つわものぐら)等上(などのうえ)に、大鳥の怪(しるまし)あるに依りて卜(うら)へ求ぎしに、隣国(となりぐに)の兵革(いくさ)の事在るべしと卜(うら)へ申せり。又肥後国に地震(ない)風水(かぜあめ)の災(わざわい)有りて、舍宅(いえいえ)悉(ことごと)に仆(たお)れ顛(くつがえ)り、人民(おおみたから)多(さわ)に流れ亡(う)せたり。如此き之(わざわい)古来より未だ聞ずと、故老等(おきなたち)も申すと言上したり。然間に、陸奥国又常に異なる地震(ない)の災い言上したり。自余(そのほか)の国国も、又頗(またすこぶ)る件(くだり)の災(わざわい)有りと言上したり。伝(つた)へ聞く、彼の新羅人は我が日本の国と久き世時より相敵(あいあたな)ひ来たり。而るに今、境内(くにのうち)に入り来りて、調物を奪ひ取りて、懼(おそ)れ沮(はばか)る気(こころ)無し、(そ)の意況(こころばえ)を量るに、兵寇の萌(きざし)此自(よ)りして生(おこ)るか、我朝久しく軍旅(いくさ)無く専(もは)ら警備(いましめ)を忘れたり。兵乱(いくさ)の事、尤も慎み恐るべし。然れども我が日本の朝(みかど)は所謂神明(かみ)の国なり。神明の助(たす)け護り賜はば、何の兵寇(あた)か近き来るべき。況掛も畏き皇大神は、我朝の大祖(おおみおや)と御座して、食国(おすくに)の天下を照し賜ひ護賜へり。然則(しかればすなわち)他国(とつくに)異類(びと)の侮(あなどり)を加へ乱(みだり)を致すべき事を、何ぞ聞食(きこしめし)て、警(いまし)め賜ひ拒(ふせ)ぎ卻(しぞ)け賜はず在む。故是(かれここ)、王-從五位下-弘道王(ひろみちのおおきみ)、中臣-雅楽少允(うたまいのつかさすないまつりごとひと)-從六位上-大中臣朝臣(おおなかとみのあそみ-冬名(ふゆな)等を以て差使して、礼代(いやじろ)の大幣帛(おおみてぐら)を、忌部(いむべ)-神祇少祐(かむつかさのすないまつりごとひと)-從六位下-斎部宿禰(いむべのすくね)-伯江(はくこう)が弱肩(よわかた)に太襁(ふとだすき)取り懸けて、持ち斎(ゆまわ)り捧げ持たしめて奉出(たてまだ)し給ふ。此狀(このさま)を平(たいら)けく聞食(きこしめし)て、仮令(たとい)時世の禍乱(みだり)として、上(かみ)の件(くだり)の寇賊(あた)の事在るべき物なりとも、掛けまくも畏き皇大神(すめおおかみ)国内(くぬち)の諸神達(もろもろのかみたち)をも唱導(いざないみちび)き賜ひて、未(いま)だ発(い)で向(た)たざる前(さき)に、沮拒(ふせ)ぎ排卻(しぞ)け賜(たま)へ。若(も)し賊(あた)の謀(はかりごと)已(すで)に熟(な)りて兵船(いくさぶね)必(かなら)ず来(く)べく在らば、境内に入れ賜はずして、逐(お)ひ還(かえ)し漂(ただよ)ひ没(おぼ)れしめ賜ひて、我朝の神国と畏れ憚れ来れる故実(ふるごと)を澆(み)だし失ひ賜ふな。此自(よ)り外に、仮令(たとい)として、夷俘(えみし)の造謀(そむき)反乱(みだるる)事、中国(なかつくに)の刀兵(いくさ)賊難(あた)の事、又水旱(おおみづひでり)風雨の事、疫癘(えやみ)飢饉(うえ)の事に至るまでに、国家の大禍(おおまがつみ)、百姓(おおみたから)の深き憂へとも在るべからむをば、皆悉に未然(まだ)外(き)に払(はら)ひ却(しぞ)け鎖滅(ほろぼ)し賜ひて、天下躁驚(さやぐこと)無く、国内平安に鎮護り救助け賜ひ皇御孫命の御體を、常磐堅磐(ときわにかきわ)に天地日月と共に、夜護昼護(よのまもりひのまもり)に護幸(まもりさきわ)へ矜(めぐ)み奉り給へと、恐み恐みも申賜はくと申す。」
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