新元素の精製と研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:12 UTC 版)
「マリ・キュリー」の記事における「新元素の精製と研究」の解説
マリの探究心はとどまることを知らず、次にEPCIにある様々な鉱物サンプルの放射能評価を始めた。やがて、2種類のウラン鉱石について調べた結果、トルベルナイト(燐銅ウラン鉱)の電離がウラン単体よりも2倍になり、ピッチブレンドでは4倍に相当することが分かり、しかもそれらはトリウムを含んでいなかった。測定が正しければ、これらの鉱石にはウランよりも遥かに活発な放射を行う何かしらの物質が少量ずつ含まれると彼女は考察した。マリは「できるだけ早急にこの仮説を確かめたくなる熱烈な願望にかられた」と後に述べた。 1898年4月14日、夫妻はピッチブレンドの分析にかかり、100グラムの試料を乳棒と乳鉢ですり潰す作業に着手した。ピエールはマリの考察の正しさを確信し、やがて取り組んでいた結晶に関する研究を中断して彼女の仕事に加わった。1898年7月、キュリー夫妻は連名で論文を発表した。これはポロニウムと名づけた新元素発見に関するものだった。さらに12月26日には、激しい放射線を発するラジウムと命名した新元素の存在について発表した。 夫妻の発表に学会の反応は冷淡だった。物理学者は新元素の放射線がどのような現象から生じるのかが不明な状態では賛同しづらく、化学者は新元素ならばその原子量が明らかでなければならないと考えていた。そのためには純粋な新元素の塊を得なければならない。マリはそれに挑む決意をした。しかしピッチブレンドは非常に高価で、それを入手する資金などなかった。熟考の末、ガラス製造時に着色目的で 使うウラン塩を抽出した後の廃棄物を利用する方法を思いつき、主生産地であるオーストリアのボヘミア・ザンクト・ヨアヒムスタール鉱山へ伝を頼って問い合わせたところ、無償で提供を受けられることになった。しかし運送費は夫妻が負担しなければならず、家計を圧迫する要因となった。 次に必要なものは、精製に必要な広い場所だった。ピエールがEPCIに掛け合った末、2人は建物を借りることができたが、以前は医学部の解剖室に使われていた、床板もない小屋だった が、ここがキュリー夫妻の様々な業績を生む舞台となる。 ピッチブレンドは複雑な化学組成を持つ混合鉱物であり、分離精製は非常に難しいものだった。しかし、夫妻はラジウム塩を特殊な結晶化(分別結晶法)によって取り出すという方法に挑んだ が、それは過酷な肉体労働を要求した。数キログラム単位の鉱石くずを大鍋や壷で煮沸・攪拌・溶解し、沈殿・ろ過などの方法で分離して、溶液を分離結晶させる作業を何段階も繰り返す。小屋には煙突もなく、大きな火を使う作業は屋外で行った。平行して放射能の研究も行わなければならず、やがて夫婦間で仕事が分担され、細かな研究をピエールが、精製作業をマリが行うようになった。しかし最初に手に入れた1トンを処理しても全く足りなかった。夫妻は新元素の含有率を1/100程度と目論んでいたが、実際には1/1,000,000相当でしかなく、有意な量の結晶を得るために必要な鉱石量は何トンにもなることはまだわかっていなかった。 夫妻には時間が足りなかった。実験にかかる経費の負担や、家族が増えたこと(妻を亡くした義父ウジェーヌ・キュリーの同居)で引っ越した先の一戸建ての家賃など生活費を稼ぐため、二人とも教職を続けなければならなかった。ピエールは収入を上げようとソルボンヌ教授職の空きに応募したが、師範学校を出ていないことなどが理由で落選した。そんな折の1900年、スイスのジュネーヴ大学から夫妻へ好条件の教授職オファーが舞い込んだが、実験を中断しなくてはならず辞退した。これを伝え聞いた数学者アンリ・ポアンカレは、優秀な頭脳の国外流出を防ぐために骨を折ってピエールをソルボンヌ医学部の物理・化学・博物学課程(PCN)教授に招聘し、またマリもセーヴルの女子高等師範学校の嘱託教師となった。こうして収入は少し増えたが、実験には焼け石に水程度だった。
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