教育ディベートに対する批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 03:46 UTC 版)
「ディベート」の記事における「教育ディベートに対する批判」の解説
教育ディベートに対する批判には様々なものがあるが、その殆どが教育ディベートそれ自体に対するものではなく、特定の教育ディベートの形式に対するものである(特に、競技ディベートや、特定の競技形式に対する批判であることも多い)。多くの指導者がディベート技術にそもそも習熟しておらず、また指導要項となるテキストやガイドラインの研究が十分になされていない状況で、単に教育実習上の興味や関心からディベートを導入し失敗する例がある[要出典]。また、論理学や詭弁術などの基礎的な弁論術の教育がなされずに、単に「ディベートの機会をカリキュラムで用意する」程度の教育意識に由来して、参加者(学生・児童)の先験的な思いつきや家庭学習などに丸投げするようなディベート学習に終了する例もある[要出典]。 米国式を採用し、取るに足らない論題(当校に新規のスポーツクラブを設立すべきかどうか等)について抽選で賛否の立場を振り分け、弁論上の技術教育なく、わずかな準備期間だけでいきなりディベートを行わせ、ディベート教育に習熟していない他の学習者に勝敗を投票(挙手)させるということがある[要出典]。このような場合ある学生・生徒の人生におけるなんらかのきっかけ(動機付け)になる可能性はあるが、集団学習としての本来の学習目的にかなう結果が得られるかどうかは分からない[独自研究?]。 矢野善郎によると「実戦(×践)的」なディベートは特殊なルールに基づく弁論ゲームとなっており、現実にはどうでもよい命題や観点(擬論)を提示しあい、取りこぼすことなく最後まで引っ張り、大層でとっぴょうしもない反論(「死者の数」が多ければ多いほど良い……もしそのような提案を実施すればこれだけ酷いことが生じ「死者が出る」)で抗弁し、肯定側の述べたアドバンテージ(AD)と否定側の述べたディスアドバンテージ(DA)の「死者の数」の比較で勝敗を決するゲーム性の強いものである。 教育ディベートそれ自体に対する批判は、教育が成功したとしても、そのディベート技術が道理に合わないことを正当化しようとする「詭弁家」や、批判だけが得意な「ニヒリスト」を育ててしまう危険性があるという点に集約される。このような批判は、古くは古代ギリシアのソフィストに対する批判から、現代のオウム真理教の上祐史浩らに対する批判に至るまで、教育ディベートに対する疑念として根強く存在してきた。このような批判に対しては、一般にそのようなことのないよう注意深く指導がなされているという理由から「教育ディベートに対する誤解」とする立場(望ましい議論のあり方を教育ディベートの定義に含める向き)がある一方、教育ディベートが持つ危険性を認識する立場もある。 もっとも、このような危険性はディベートに限ったことではない。ニヒリズムについてのハンナ・アレントの言葉から飛躍し、危険な議論は存在せず、議論そのものが危険なのであるとも言える。このことは、歴史教育の手法としての教育ディベートに対する批判にも当てはまる。
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