攻撃の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 15:11 UTC 版)
攻撃までの経緯は不明な点が多いが、既述のように阿波丸への軍需物資積載を確認したアメリカ太平洋潜水艦隊司令官のロックウッド少将は、阿波丸を正当な攻撃目標として、ニミッツ大将に攻撃許可を要請している。ロックウッド少将はニミッツ大将の返答が届かなかったことを黙認と受け取った説もある。[要出典]。 だが、攻撃禁止命令が下されたクイーンフィッシュには根拠地サイパンを出る際に禁止命令書が渡されていたが、一般書類に紛れて艦長の確認が遅れていた。しかも、阿波丸の位置情報を知らせる電報の伝達も遅れて間に合わなかった。通信の遅れは、いくつものセクションをまたがっての連絡であった上に、暗号解析されることを嫌ったアメリカ海軍が阿波丸の情報を得てから相当時間が経った後に平文であやふやな電報を送ったなどの原因が重なったためである。結果的に艦長は阿波丸に対する攻撃を敢行し撃沈してしまい、しかも標的が軍艦だと誤認して攻撃している。クイーンフィッシュのチャールズ・E・ラフリン艦長は「不注意」ということで軍法会議で有罪判決(戒告処分)を受けている。
※この「攻撃の理由」の解説は、「阿波丸事件」の解説の一部です。
「攻撃の理由」を含む「阿波丸事件」の記事については、「阿波丸事件」の概要を参照ください。
攻撃の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 03:54 UTC 版)
1814年4月、ナポレオン・ボナパルトの敗北と追放に続いて、イギリスはアメリカ合衆国との戦争につぎ込む兵士と艦船を集めることが可能になった。イギリスの陸軍・植民地大臣バサースト伯爵は、バミューダ諸島に軍隊を派遣した。米英戦争を通じて、そこからアメリカ海岸を封鎖したり、海岸の島を占領したりしていた。当初はアメリカ合衆国政府がカナダに対して作戦展開するのを止めさせるために、これらの軍隊を使うつもりだった。1814年初期、海軍中将アレクサンダー・コクラン卿がイギリス海軍の北アメリカ・西インド艦隊の総司令官に指名されていた。コクランは既にバージニア州やニューオーリンズに攻撃を掛けることでアメリカ合衆国に対する戦争遂行の作戦を持っていた。 海軍中将ジョージ・コックバーンが前年からチェサピーク湾の戦隊を指揮していた。6月25日、コックバーンはコクランに宛てて手紙を書き、その地域の防衛力が弱く、主要都市の幾つかは攻撃に対する耐性が無いと強調していた。コクランはボルチモア、ワシントンおよびフィラデルフィアに対する攻撃を提案した。7月17日、コックバーンはワシントンが比較的攻撃も容易であり、「大きな政治的効果が生まれる可能性がある」ので、ワシントンを標的にすることを推奨した。 イギリス軍がアメリカ合衆国の町や都市を攻撃する動機として、その年5月にアメリカ軍が「エリー湖北岸の民間資産を理不尽に破壊したこと」に対する報復という意味合いもあった。その最たるものがポートドーバーに対する襲撃だった。1814年6月2日、カナダの軍政府長官ジョージ・プレボスト卿が、バミューダのベイリーズベイにいた海軍本部のコクランに宛てて手紙を書き、アメリカが非戦闘員の市民と民間資産にたいして略奪行為を行ったことに対する報復を要求した。当時そのような行為は戦時国際法に違背すると考えられていた。7月18日、コクランはコックバーンに対し、「敵が同様な暴虐を繰り返すことを阻止し、...攻撃できると判断できる町や地区を破壊し荒らすよう求められ指示される」と告げる命令を発した。コクランは「アメリカ合衆国の武装していない住人の生命は単に見逃すことになる」とも伝えていた。
※この「攻撃の理由」の解説は、「ワシントン焼き討ち」の解説の一部です。
「攻撃の理由」を含む「ワシントン焼き討ち」の記事については、「ワシントン焼き討ち」の概要を参照ください。
- 攻撃の理由のページへのリンク