ゴルニ・ヴァクフ包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)
「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「ゴルニ・ヴァクフ包囲」の解説
ゴルニ・ヴァクフはラシュヴァ渓谷の南側に位置する町であり、クロアチア人勢力の拠点であるヘルツェゴヴィナ地域と中央ボスニアを結ぶ戦略的に重要な地域にあった。ゴルニ・ヴァクフはノヴィ・トラヴニクから48キロメートル、ヴィテズから装甲車で1時間程度のところにあった。クロアチア人にとってゴルニ・ヴァクフは、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体の領域とされたヘルツェゴヴィナとラシュヴァ渓谷とを結ぶ戦略的な意義の大きい場所であった。 1993年1月10日、ゴルニ・ヴァクフで迫害が始まる直前の頃、クロアチア防衛評議会の司令官ルカ・シェケリヤ(Luka Šekerija)はブラシュキッチ大佐およびダリオ・コルディッチに対して「最高軍事機密」指定にて、ヴィテズの弾薬工場から大量の迫撃砲砲弾を可能な限り送るよう求めた。1993年1月11日、ボシュニャク人が運営し当時ボシュニャク人の司令部として使用されていたホテルに対してクロアチア人側が爆弾で攻撃して戦闘に発展した。戦闘は全面的な軍事衝突に発展し、その晩クロアチア人側は大砲による激しい包囲砲撃を実施した。 ゴルニ・ヴァクフに置かれていたイギリス軍司令部で停戦交渉が行われ、クロアチア防衛評議会のアンドリッチ(Andrić)大佐はボシュニャク人が武器を放棄し、町をクロアチア防衛評議会の支配下とすることを求めた。そして、要求が認められない場合はゴルニ・ヴァクフをまっ平らに破壊すると脅迫した。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍がこの要求を受け入れなかったためクロアチア人による攻撃は続けられ、その後にビストリツァ(Bistrica)、ウズリチェ(Uzričje)、ドゥシャ(Duša)、ジュドリムツィ(Ždrimci)、フラスニツァ(Hrasnica)といった郊外の村々でボシュニャク人に対する虐殺が行われた。クロアチア人はゴルニ・ヴァクフ攻撃の理由としてムジャヒディーンの存在を挙げることがあるが、当地にいたイギリス軍の司令官はそうしたムジャヒディーンがゴルニ・ヴァクフにいたことを否定し、部下のイギリス軍兵士たちは1人としてムジャヒディーンを見かけたことはないとしている。
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