投獄と逃亡から復位まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:03 UTC 版)
「カワード1世」の記事における「投獄と逃亡から復位まで」の解説
カワード1世が廃位されたのち、すぐに貴族の間でカワードをどう処遇するべきかの評議が開かれ、著名な大土地所有者の一族で、最北東部の国境地帯の軍司令官(カナーラング(英語版))であったグシュナスプダード(英語版)がカワードの処刑を提案した。しかしグシュナスプダードの提案は却下され、代わりにカワードは忘却の城(英語版)と呼ばれるフーゼスターンの監獄に投獄された。プロコピオスの説明によれば、投獄中にカワードの世話を行っていた妻が、妻に言い寄っていた看守に対し、カワードの命でその看守に身を委ねることと引き換えに誰の干渉も受けずにカワードと接触できる状況を作った。監獄の近隣に常駐し、救出の機会をうかがっていた親友のシヤーウシュ(英語版)が監獄の近くで馬を準備してカワードを脱出させる計画を立て、シヤーウシュはカワードの妻を通じてカワードに監獄からさほど遠くない場所に馬と人を用意しているという情報を送った。ある日の夜に妻と接触したカワードは、女性に変装するために妻と衣装を入れ替え、監獄から脱出し、シヤーウシュと共に逃亡することに成功した。 タバリーの説明はプロコピオスとは異なっている。タバリーは、カワードの姉妹の一人が自身の生理の血が染み込んでいると看守に信じ込ませた絨毯の中にカワードを巻きつけることで脱出を助けたと述べている。看守は絨毯の血に「汚されるのではないかと恐れ」、問題視しなかったか取り調べを行わなかった。『後期ローマ帝国の人物研究(英語版)』の著者の一人であるジョン・ロバート・マーティンデールは、この女性は実際にはカワード1世の長男であるカーウス(英語版)の母親で、カワードの姉妹であり妻のサムビケであったという説を提示している。いずれにせよカワードは監獄から脱出することに成功し、エフタルの王の宮廷へ向かい、そこで庇護を受けた。タバリーの歴史書に含まれている物語によれば、カワードは逃走中にニーシャープール出身の農民の娘であるニワンドゥフトと出会った。彼女はカワードの子供を身籠り、子供は後にホスロー1世となった。しかしながら、イラン学者のエフサン・ヤルシャテル(英語版)は、この物語を「寓話」であるとして退けている。ホスロー1世の母親は、実際には大貴族家系のアスパーフバド家(英語版)の出身であった。エフタルの宮廷においてカワードはエフタル王の支援を得るとともに、王の娘(カワードの姪であった)と結婚した。 エフタルの宮廷での滞在中に、カワードはエフタルの以前の宗主国であるキダーラ朝(英語版)よりも発展を遂げている姿を目撃したかもしれない。当時エフタルの支配下にあったバルフの現在のクバディアン地区(カワディアンがアラビア語化された名称)は、カワードによって作られた地区である可能性が最も高く、亡命中にそこに住んでいた可能性がある。498年(もしくは499年)にカワードはエフタルの軍隊を伴ってペルシアへ帰還した。カワードはホラーサーンのカナーラングの一族の領地を通過した際に、一族の一人であるアデルゴードーンバデース(英語版)に出会い、アデルゴードーンバデースはカワードに協力することを承諾した。カワードに協力したもう一人の貴族は、スフラの息子であるザルミフル・カーレーン(英語版)であった。 ジャーマースプと貴族、そして聖職者はさらなる内戦の発生を望まなかったために抵抗しなかった。彼らはジャーマースプや支配層に危害を加えないという条件のもと、カワードが再び王になることを承諾した 。グシュナスプダードとカワードに対する陰謀を企てていた他の貴族は処刑された一方で、ジャーマースプはおそらくは盲目にされたものの処刑は免れた。しかし、カワードはほとんどの場合において寛大さを示すことによって自らの地位を確固たるものにした。シヤーウシュがサーサーン朝軍の最高司令官(アルテーシュターラーン・サーラール)に任命され、アデルゴードーンバデースはカナーラングの長官に任命された。また、スフラのもう一人の息子であるボゾルグメフル(英語版)は、帝国の大宰相(ウズルグ・フラマダール(英語版))となった。カワードによる王位の奪回は帝国の混乱した状況を物語っている。政治的な混乱の中では、小規模な軍事力でもって貴族と聖職者の連帯を凌ぐことが可能であった。
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