投獄とカリフへの登位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 06:20 UTC 版)
「ムウタディド」の記事における「投獄とカリフへの登位」の解説
理由は定かではないものの、この時期の数年間にアブル=アッバースと父親の関係が悪化した。既に884年にはアブル=アッバースのギルマーンが、恐らくは俸給の未払いをめぐってバグダードでムワッファクのワズィール(宰相)であるサイード・ブン・マフラド(英語版)に対し暴動を起こしていた。結局アブル=アッバースは889年に拘束され、父親の命令で投獄された。その後、自身に忠実なギルマーンによる抗議が発生したにもかかわらず、アブル=アッバースは獄中に留まり続けた。そしてムワッファクがジバール(英語版)で2年間過ごした後にバグダードへ戻った891年5月まで拘束されたままだったとみられている。 痛風に苦しんでいたムワッファクは、明らかに死に近づいていた。ワズィールのイスマーイール・ブン・ブルブル(英語版)とバグダードの長官のアブル=サクルが、後継者と見込まれていたムファッワド(英語版)を含むムウタミドとその息子たちをバグダードの市内に呼び寄せ、自分たちの目的のためにこの状況を利用しようとした。しかし、アブル=アッバースを遠ざけようとしたこの試みは、アブル=アッバースが兵士や民衆から高い評判を得ていたために失敗に終わった。アブル=アッバースは死の床にあった父親を訪ねるために釈放され、6月2日にムワッファクが死去した際に即座に権力を掌握することに成功した。バグダードの暴徒がアブル=アッバースの敵対者たちの家を荒らしまわり、イスマーイールは解任されるとともに投獄され、数か月後に虐待によって死亡した。アブル=アッバースの諜報員よって捕らえられたイスマーイールの支持者たちの多くも同様の運命を辿った。 今や全権力を掌握したアブル=アッバースは、アル=ムウタディド・ビッ=ラーフの称号を名乗り、ムウタミドとムファッワドに次ぐ後継者の立場とともに父親のすべての官職を継承した。そして数か月後の892年4月30日には従兄弟のムファッワドを後継者の地位から完全に排除した。ムウタミドは892年10月14日に死去し、ムウタディドがカリフとして権力を握った。
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