意図・姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 16:01 UTC 版)
『秘密集会タントラ』の意図・目的の一端が、あるいは瑜伽行者における体験を通じたその挑発的・価値転倒的な姿勢が、瑜伽行の唯識や密教の「転識得智」(てんじきとくち)を基として端的かつ象徴的に描かれている章が、第五分と第九分である。 第五分では、 貪・瞋・痴に満ちた行者は、無上なる最高の乗において、(「転識得智」によって三つの根本煩悩さえも仏の智慧に変じて)最勝の悉地を成就する 旃陀羅・笛作り等や、殺生の利益をひたすら考えている者たちは、無上なる大乗の中でも、最上の乗において成就をなしとげる 無間業(地獄に堕ちる悪行)、大罪を犯した者さえもまた、大乗の大海の中でも優れたこの仏乗において成就する 殺生を生業とする人たち、好んで嘘を言う人たち、他人の財物に執着する人たち、常に愛欲に溺れる人たちは、本当のところ、成就にふさわしい人たちである 母・妹・娘に愛欲をおこす行者は、大乗の中でも最上なる法の中で、広大な悉地を得る といった文言が説かれ、それに反発した菩薩(摩訶薩)たちに対して、 これらは清浄な法性であり、諸仏の心髄中の心髄である法の義から生じたものであり、とりもなおさず菩薩行の句である とダメ押しの文言が告げられ、菩薩たちは恐れおののいて卒倒してしまう。(しかしすぐさま蘇生され、一転して賛嘆の言葉を発し、章は終わる。) この内容から、安易な理解によると『秘密集会タントラ』が、インド社会の底辺にいる人々や、「虐げられた」人々を対象にし、彼らを中心に伝統的な仏教教義を反転・再編成することを意図したものであると見てしまう。こうした意図に沿って理解すれば、背景としては庶民を糾合して台頭してきたヒンドゥー教に対して劣勢に立たされた仏教界が、対抗的にヒンドゥー教の要素や様々な民間信仰・呪術を取り入れ、改革を行っていった「密教化」の流れの成れの果て、といった説明がよくなされる。ただし一方で、俗語混じりのタントラの文章から、そもそもタントラを形作ってきた人々自身が、社会的にそれほど高くない層に属していたとも考えられる。 第九分では、 仏曼荼羅と阿閦金剛を観想し、一切の衆生を殺す 輪曼荼羅と毘盧遮那・一切諸仏を観想し、一切の財物を奪う 蓮華曼荼羅と無量光・一切諸仏を観想し、一切の妃を瑜伽(二根交会)で享受する 仏曼荼羅と不空金剛・一切諸仏を観想し、一切の勝者(の拠り所となるもの)を欺く 三昧耶曼荼羅と宝幢を観想し、粗暴な言葉を使う ことなどが説かれ、これまた第六分の場合と同じように反発した菩薩(摩訶薩)たちに対して、 貪欲行というものは、なんでも菩薩行であり、最勝行である 虚空と存在物が一体なように、これら五仏の三昧耶は、欲界にも、色界にも、無色界にも、四大種にも存在しない 虚空界という言葉の本源解釈によって、これら如来の三昧耶は理解されねばならない といったことが説かれ、菩薩たちは驚きの目を見開く。(そして賛嘆の言葉を発し、章は終わる。) この第九分においては、非倫理的な振る舞いの推奨が、仏教教義と明確に結び付けられ、合理化されて説かれている。 この第九分ほど明確ではないものの、『秘密集会タントラ』では、ところどころに「自性清浄・虚空・不生・無我・平等性・無分別(離分別)」といった類の似通った文言・主張・ほのめかしが散りばめられている。
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