引退後・横浜監督時代
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1994年、TBS(TBSテレビ・TBSラジオ)とCBC(CBCテレビ・CBCラジオ)の野球解説者に就任。11年間務め、眼鏡をかけた精悍な顔立ちと理論派で且つさわやかな口調で人気があった。スポーツニッポン野球評論家も合わせて務める。 1997年オフ横浜ベイスターズの監督に就任した権藤博から一軍投手コーチの要請を受けるが、熟慮の末「子供の学校の問題もあるし、家のローンも残っているので」と断った。1999年オフに中日時代の同僚だった大島康徳が日本ハムファイターズの監督に就任、大島から一軍投手コーチの要請を受けるが球団が出した条件と合わず就任に至らず。 2005年、横浜ベイスターズの監督に就任。横浜とは現役時代には全く縁がないが、当時横浜はTBSが親会社だったため、TBSの野球解説者であったつながりから牛島に声がかかった。就任1年目にして3年連続最下位のチームをAクラスに導く。しかし、2006年に横浜のチーム不振に伴い同シーズンをもって引責辞任。8月上旬には退団の意向を固め、10日に佐々木社長とのトップ会談で辞意を申し入れた。9月3日の会見では「一生懸命に応援していただいているファンに申し訳ないという思いが強く、決断した。選手は本当に頑張ってくれたが、2年契約の2年目で結果を残せなかったのは、私の責任だと思って会社に伝えた」と話した。球宴期間には「交流戦後は良い戦い方ができていた。故障していた選手も徐々に戻ってきていて戦力も厚みを増してくる。チーム内でもいい意味での競争もできそう」と巻き返しを期していたが浮上出来なかった。 ただし、「成績不振の引責というのは表向きで、実際はチーム強化を巡って消極姿勢を示した球団との確執が原因」という噂も囁かれている(2006年8月30日の各スポーツ紙が報じた辞任報道の内容による)。 その後、TBSとCBCのテレビとラジオの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に復帰した。現在は、解説者として出演する傍ら、横浜ベイスターズ監督当時のフィジカルトレーナーである山口光圀と共に『Senseup+ Sports Academy』を開校し、技術だけではなく、体の使い方、心の持ち方など自身の経験を惜しみなく伝え、子供達を指導している。また、2011年よりセガサミー硬式野球部の特別投手コーチ(非常勤)を務めるほか、社会人野球チームや大学野球の投手指導も行っている。
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