引退後・監督時代・解説者時代
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「山本浩二」の記事における「引退後・監督時代・解説者時代」の解説
引退後は1987年から1988年までの2年間、NHK野球解説者・日刊スポーツ野球評論家を経て、1989年から古巣・広島の監督に就任した。契約は5年契約でヘッドコーチに大下剛史、投手コーチに池谷公二郎、打撃コーチに水谷実雄を招聘した。 1989年、1990年はリーグ2位で、1991年にはリーグ優勝し、日本シリーズでは西武に3勝4敗で敗れた。1992年は10年ぶりのBクラスとなる4位に終わり、1993年にはリーグワーストタイのサヨナラ負け14回を記録し、19年ぶりの最下位に終わり、同年限りで辞任した。 1994年から2000年までの7年間、日本テレビ・広島テレビ野球解説者を務めたが、球団に要請され、2001年から再び広島の監督に就任して8年ぶりの現場復帰。チーフ兼打撃コーチに文化放送・テレビ神奈川野球解説者の松原誠、投手コーチにテレビ朝日・広島ホームテレビ野球解説者の北別府学に招聘した。第2次監督在任中は一度もAクラスになることがなく、2005年に成績不振(12年ぶりの最下位)を受け、辞任した。監督時代の第1期では前田智徳や緒方孝市、江藤智など、第2期には新井貴浩や嶋重宣、栗原健太を打線の主力として育成した。監督退任後の2006年より、日本テレビ・広島テレビ野球解説者に復帰した。 2007年、星野仙一日本代表監督の下、北京オリンピック野球日本代表チームの守備・走塁コーチに就任したが、結果は4位に終わった。 2008年に野球殿堂入り。2010年より日本プロ野球名球会副会長に就任し、2014年より理事長に就いている。 2012年10月10日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」から野球日本代表監督を務める」と発表され、11月13日、背番号が「88」となったことが発表された。投手総合コーチには東尾修を起用した。 2013年3月に開催された第3回WBCでは、過去3回中最高の成績で決勝ラウンドまで通過するも、準決勝のプエルトリコ戦に1対3で敗北し、優勝を逃した。また、8回裏の重盗失敗に関しては、内野守備走塁コーチを務めた高代延博によると、グリーンライトのサインが出ているとはいえ行かせると山本に念を押したのは自分であるとし、山本は会見で「グリーンライトのサインを送り走らせたことは間違ってない。悔いはない」と述べた。高代は「スタッフの責任も選手のミスも、そのすべてを背負い込んでくれた」と自著で著している。 2019年春先に体調を崩し、長期休養に入った。2020年に旧友の田淵が野球殿堂入りし、1月18日に行われた法大OB会にて田淵は「今朝(山本と)電話にて話して、現在は体重こそ減ったが現在30〜40分くらいの散歩をしているそう。もしかしたら4月から解説に復帰する」と山本の状況を語っている。 2020年2月7日、日本テレビ解説者として宮崎市の巨人キャンプ視察に訪れた際に、山本自身が記者団の取材に応じて「前年(2019年)に膀胱がんと肺がんを患って手術した」ことを明らかにした。復帰と共に、日本テレビ・広島テレビの野球解説者として活動している。
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