年齢と経歴と血液型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:05 UTC 版)
手塚治虫は、1928年生まれでデビュー時は1946年1月4日で17歳であったが、1946年1月1日付の少年国民新聞(現・毎日小学生新聞)にデビュー作の「マァチャンの日記帳」が紹介された際には、19歳として以下のように紹介されていた。 『新しく明日(原文ママ)から連載する漫画「マアチャンの日記帳」の作者手塚治蟲(原文ママ)さんはみなさんと同じクリクリ坊主で十九歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大医学専門部に通学して、お医者さんになる勉強をしていられますが、小さい頃から漫画が大好きで国民学校2年生の時からいろいろの漫画をかいて、たのしんでいられました。あんまり上手なのでみなさんのために連載することにしました。ほがらかなマアチャンをかわいがって上げて下さい。』 関係の有無は不明だがこの時手塚は当時日常的に使われていた数え年ではこの記事が掲載された1946年元日で19歳になる。他に1989年の書籍に掲載された手塚と石ノ森章太郎との対談では「自分は20歳でデビューした」という体で話を進め、17歳でデビューした石ノ森を叱責している。晩年においては生年月日は大正15年(1926年)で定着していた。世間一般に本当の生年が明らかにされたのは死去直後のことであり、訃報を伝える新聞でも新聞の種類によって生年が異なるという不思議な事態が起きた。親しい立場にあった漫画家でさえ本当の年齢を知って驚いたほどであった。 また、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の卒業生であり、上記のようにデビュー当時の新聞には事実通り「大阪帝大医学専門部(ママ)」と紹介されていた。1978年に手塚が書いた雑誌の寄稿文でも自分のことを事実通り帝国大学附属医学専門部の学生だったと振り返っている。しかし1980年代には「1944年に旧制浪華高校理乙入学」「1945年に大阪大学医学部予科入学」と事実と異なった経歴が紹介されることもあった。(事実通り紹介している書籍もある)手塚の没後、小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によって「浪華高校」も「大阪大学予科」もそもそも存在しない学校である事が指摘されている。書籍によっては手塚の来歴が事実と異なった内容で紹介されるようになった理由については定かではない。 一方、血液型もプロフィールにおいてB型と紹介されることもあったが、現在ではA型ということで落ち着いている。これについては手塚本人の著書で「戦争中に検査を受けた際はB型と聞かされていたが、1980年代頃に精密検査を受けてA型と知らされた」と説明している。なお、息子の眞もA型である。
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