17歳でデビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 04:01 UTC 版)
明治13年(1880年)頃、浅草並木町六番地に移っており、同年の6月、版元福田熊治郎から「浅草橋夕景」を、版元4代目松木平吉より「新吉原夜桜之景」「代官町之景」の3点の風景画を発表して版画家としてデビューする。作品欄外には清親の名が添えられており、清親が安治の才能を認め、後見人として少年絵師の前途を祝す意図があるものと考えられる。翌年「蛎殻町川辺の図」「富士見渡シ之景」「浅草橋雨中の景」「枕橋の図」「霊岸島高橋の景」(全て横大錦)などを、明治15年(1882年)に「銀座商店の夜景」といった作品を発表、清親が明治14年(1881年)以降光線画を描かなくなると、事実上これを引き継いでいる。明治10年代後半を中心に描かれたこの大判画の光線画シリーズ「東京名所絵」とも呼ばれ、現在16点確認されており、詩情を感じさせる優品が多い。また、同じ明治14年から最晩年にわたって葉書版の「東京名所絵」シリーズを刊行しており、清親の原図によるもの、その一部を変更したもの及び安治独自のものを合わせておよそ154枚に達している(後述)。 その後、明治17年(1884年)版元松木から受けた井上探景と画号を改め、光線画の他に、開化絵、風俗画、相撲絵、戯作の挿絵等も手掛けるようになる。明治18年(1885年)から翌年にかけては、清親や芳年などの人気絵師と伍して「教導立志基」のような教訓絵を多く描いた。同20年代に入ると版元が増え三枚組の仕事が多くなり、皇室関係や憲法発布を題材とした時事報道の時局絵を発表する。しかし、これらは安治の絵の特色である詩情が後退して、他の明治錦絵に近いものになり、絵自体もひ弱な印象を受け、光線画に比べると評価されていない。
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