常陸國風土記とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 製品 > 歴史的書籍 > 日本の書籍 > 風土記 > 常陸國風土記の意味・解説 

ひたちふどき【常陸風土記】

読み方:ひたちふどき

奈良時代常陸国地誌1巻和銅6年713)の詔により撰進された風土記の一。養老年間717〜724)に撰進11郡中9郡の記事残っている。常陸国風土記。


常陸国風土記

読み方:ヒタチノクニフドキ(hitachinokunifudoki)

古代地誌

別名 常陸風土記


常陸国風土記

読み方:ヒタチノクニフドキ(hitachinokunifudoki)

分野 地誌

年代 奈良時代

作者 編者未詳


常陸国風土記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 03:58 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年和銅6年)に編纂され、721年養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。

概要

元明天皇[1]によって編纂が命じられた。常陸国風土記は、この詔に応じて規定の上申文書形式(解文)で報告された。その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝ふる旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている[2]

編纂者は不明で、現存テキストには「以下略之」など、省略したことを示す記述があることから、原本そのものの書写ではなく、抄出本の写本とも考えられる。 遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合常陸国国守であったことから、その編纂者に比定されることもある。 また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説がある(このことについては高橋虫麻呂を参照)。

現在、風土記は、常陸国播磨国肥前国豊後国出雲国の5冊のみ伝わっているが、いずれも原本ではない。他は逸文

常陸国は、大化改新645年)により646年(大化2)に設置される。現在の石岡市国府国分寺が置かれた。そののち新治、白壁(真壁)、筑波河内信太茨城行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれた[3]

本書における常陸国の名の由来は、以下の2説とされている。

「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」
倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」
また、『常陸国風土記』が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていた。

脚注

  1. ^ 713年5月2日「畿内・七道諸国の郡(こおり)・郷(さと)の名に好い字(漢字二字)を付け、郡内に産出する金・銅・染色(絵具の材料)・植物・鳥獣・魚・虫などのものは、詳しく種類を書き、土地の肥沃程度を書き、山・川・原野の名のいわれ、また古老の伝えるその地の伝承などを記録して報告せよ」(原漢文)
  2. ^ 長谷川伸三「文化のあけぼのから兵の世へ」 長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛史編『茨城県の歴史』山川出版社 2003年 27-28ページ
  3. ^ 『延喜式』『吾妻鏡』その他等

関連項目

外部リンク


常陸国風土記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:59 UTC 版)

ダイダラボッチ」の記事における「常陸国風土記」の解説

奈良時代成立した『常陸国風土記』のうち、常陸国那賀郡(なかのこおり)(現在の茨城県那珂郡〈なかぐん〉)について記された「那賀略記」には、以下のとおり大昔の「大櫛之岡(おおくしのおか)」にいたという長大な人についての記述平津駅家条)がある。 《 原 文 》 ※縮小文字原本上の補足。※和字間隔現代補足平津驛家西一二有岡 名曰 大 上古有人長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃 大蛤其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許 — 『常陸國風土記』那賀略記書き下し文》 ※振り仮名文語体。.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}平津駅家(ひらつのうまや)の西一二(いちに)里(り)に岡(をか)あり。名を大(おほくし)と曰(い)ふ。上古いにしへ)、人あり。體(かたち)は(きは)めて長大(たけたか)く、身(み)は丘壟(をか)の上(うへ)に居(ゐ)ながら、手は海浜うみべた)の蜃(うむき)を摎(くじ)りぬ。大蛤(おほうむき) 也(なり)。其(そ)の食(く)らひし貝(かひ)、積聚(つも)りて岡(をか)と成(なり)き。時人ときのひと)、大朽(おほくち)の義(こころ)を取(と)りて、今は大櫛之岡(おほくしのをか)と謂(い)ふ。その践(ふ)みし跡(あと)は、長さ卌(しじふ) 歩(あし)余(あまり)、広さ廿(にじふ) 歩(あし)余(あまり)、尿穴(ゆまりのあな)の径(わたり) 廿(にじふ) 歩(あし)余(あまり) 許(ばかり)なり。 《口語解釈例》 ※振り仮名口語体。[ ]内は文意整えるための補足文。( )内の※に続く記述注釈。[常陸国ひたちのくに)の那賀郡(なかのこおり)にある交通の要衝・]平津駅家(ひらつのうまや)から西へ一二(いちに)里(り)もしくは1里・2里ほど行った所に岡(おか)(丘)があり、名を「大(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]体(からだ)は極めて長大ちょうだい)で、岡の上いながらにして手は海浜の蜃(うむき)を掘り起こしてしまう。[それほど巨人であった。][ここでいう蜃(うむき)とは]大蛤(おおうむき)である(※『うむき(蜃、)』はハマグリ古語)。その[巨人の]食べた貝[の殻]は、積もり積もってになった当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが訛って今は大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地大串貝塚(おおぐし かいづか)。その所在地は、現在の茨城県水戸市塩崎町1064-1、かつての東茨城郡常澄村塩崎)。その[巨人の]足跡は、おおよそ長さ40歩あまり、幅20歩あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20歩あまりであった考古学等の諸分野においても、係る大櫛之岡巨人伝説」とその比定地大串貝塚は相当に重要で、縄文時代貝塚遺跡文献記されている最古の例、もっと言えば石器時代遺跡記録され日本最古の例として知られている。

※この「常陸国風土記」の解説は、「ダイダラボッチ」の解説の一部です。
「常陸国風土記」を含む「ダイダラボッチ」の記事については、「ダイダラボッチ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「常陸國風土記」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「常陸國風土記」の関連用語

常陸國風土記のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



常陸國風土記のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの常陸国風土記 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのダイダラボッチ (改訂履歴)、晡時臥山 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS