市区改正事業と東京中央停車場構想とは? わかりやすく解説

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市区改正事業と東京中央停車場構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)

東京駅の歴史」の記事における「市区改正事業と東京中央停車場構想」の解説

ちょうどこの頃東京市における道路運河上下水道、港などの都市施設計画についてまとめて議論して各省庁機関地元との調整行おうとする市区改正呼ばれる動きがあった。市区改正現在の都市計画相当する言葉で、東京においては第7代東京府知事松田道之提案した総合的な都市計画端緒となった。さらに松田後任芳川顕正松田構想継承しつつも、日本全体のことを考えた道路鉄道網構想し東京府設置され東京市改正取調委員局から内務省に対して1884年明治17年11月14日提出され市区改正意見書では、「鉄道新橋上野停車場線路接続セシメ、鍛冶橋内及万世橋ノ北ニ停車場設置スヘキモノトス」とされた。この鍛冶橋設置提案され停車場が後の東京駅につながることになる。 この意見書受けて内務省市区改正審査会設置され官庁財界からの委員審議行ったその結果新橋上野を結ぶ高架鉄道建設し鍛冶橋付近に中央停車場設置し旅客用高架ホーム設けること、地平には貨物取扱設備設けることなどの原案固まった。この意見書はしばらく放置されていたが、国の正式な計画とするために元老院回され審議された。しかし守旧であった元老院はその価値理解せず国庫余裕がないとして1888年明治21年6月15日否決してしまった。ところが当時内務大臣山縣有朋大蔵大臣松方正義はこれを巻き返し閣議において元老院決定一刀両断の上1888年8月16日勅令62号として東京市区改正条例公布された。 これを受けて詳細詰めるための東京市改正委員会発足した。そこでさらに議論が行われたのち、原案のように新橋上野高架線で結び、この間中央停車場設置することが答申された。この報告受けて内務省鉄道庁長官に対して1890年明治23年9月17日付で、中央停車場より南側官設鉄道が、北側日本鉄道建設する形で、ただちに工事着手するように訓令した。 中央停車場計画されたのは、皇居前にあたる丸の内当時町名永楽町であった江戸時代には武家屋敷建ち並んでいた一帯で、明治維新後には陸軍兵営練兵場警視庁裁判所などの政府関連施設並んでいた。しかし繁華街に近いとはいえ監獄置かれているなど、東京場末と言ってもよい場所であった明治政府安定して皇居目前警備を行う必要性薄れてきたことから、兵営郊外移転させてこれらの土地再開発検討されることになり、丸の内広大な敷地三菱財閥払い下げられ欧米様式オフィス街建設開始された。馬場先門通り部分だけは明治末までに煉瓦造りオフィスビルできあがって一丁倫敦」(その部分だけロンドンのようであるという意味)と呼ばれたが、それ以外部分依然として未開発で、荒涼たる野原は「三菱ヶ原」と呼ばれていた。この原野中央停車場建設されることになり、丸の内はこれにより初め日本ビジネスセンターとしての道を歩み始めることになる。

※この「市区改正事業と東京中央停車場構想」の解説は、「東京駅の歴史」の解説の一部です。
「市区改正事業と東京中央停車場構想」を含む「東京駅の歴史」の記事については、「東京駅の歴史」の概要を参照ください。

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