市区改正事業と東京中央停車場構想
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「東京駅の歴史」の記事における「市区改正事業と東京中央停車場構想」の解説
ちょうどこの頃、東京市における道路や運河、上下水道、港などの都市施設の計画についてまとめて議論して、各省庁・機関・地元との調整を行おうとする市区改正と呼ばれる動きがあった。市区改正は現在の都市計画に相当する言葉で、東京においては第7代東京府知事松田道之が提案した総合的な都市計画が端緒となった。さらに松田の後任の芳川顕正は松田の構想を継承しつつも、日本全体のことを考えた道路や鉄道網を構想し、東京府に設置された東京市区改正取調委員局から内務省に対して1884年(明治17年)11月14日に提出された市区改正意見書では、「鉄道ハ新橋上野両停車場ノ線路ヲ接続セシメ、鍛冶橋内及万世橋ノ北ニ停車場ヲ設置スヘキモノトス」とされた。この鍛冶橋に設置を提案された停車場が後の東京駅につながることになる。 この意見書を受けて内務省に市区改正審査会が設置され、官庁や財界からの委員が審議を行った。その結果、新橋と上野を結ぶ高架鉄道を建設し、鍛冶橋付近に中央停車場を設置し旅客用の高架ホームを設けること、地平には貨物取扱設備を設けることなどの原案が固まった。この意見書はしばらく放置されていたが、国の正式な計画とするために元老院へ回され審議された。しかし守旧的であった元老院はその価値を理解せず、国庫に余裕がないとして1888年(明治21年)6月15日に否決してしまった。ところが当時の内務大臣山縣有朋や大蔵大臣松方正義はこれを巻き返し、閣議において元老院決定を一刀両断の上、1888年8月16日に勅令第62号として東京市区改正条例が公布された。 これを受けて、詳細を詰めるための東京市区改正委員会が発足した。そこでさらに議論が行われたのち、原案のように新橋と上野を高架線で結び、この間に中央停車場を設置することが答申された。この報告を受けて内務省は鉄道庁長官に対して1890年(明治23年)9月17日付で、中央停車場より南側を官設鉄道が、北側を日本鉄道が建設する形で、ただちに工事に着手するように訓令した。 中央停車場が計画されたのは、皇居の前にあたる丸の内、当時の町名で永楽町であった。江戸時代には武家屋敷の建ち並んでいた一帯で、明治維新後には陸軍の兵営や練兵場、警視庁や裁判所などの政府関連施設が並んでいた。しかし繁華街に近いとはいえ監獄も置かれているなど、東京の場末と言ってもよい場所であった。明治政府が安定して皇居の目前で警備を行う必要性も薄れてきたことから、兵営を郊外に移転させてこれらの土地の再開発が検討されることになり、丸の内の広大な敷地が三菱財閥に払い下げられて欧米様式のオフィス街の建設が開始された。馬場先門通りの部分だけは明治末までに煉瓦造りのオフィスビルができあがって「一丁倫敦」(その部分だけロンドンのようであるという意味)と呼ばれたが、それ以外の部分は依然として未開発で、荒涼たる野原は「三菱ヶ原」と呼ばれていた。この原野に中央停車場が建設されることになり、丸の内はこれにより初めて日本のビジネスセンターとしての道を歩み始めることになる。
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