市区の歴史
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「シュヴェービッシュ・グミュント」の記事における「市区の歴史」の解説
バルガウは、その南のショウエルベルクが突き出した部分に建つ城砦 Veste Bargau が1326年に初めて文献に記録されている。レヒベルク家、ローテンレーヴェン家、ウルバッハ騎士家およびヴァイセンシュタイン家といった領主を経て、1544年に帝国都市グミュント領となった。バルガウにはその城砦を本部とする代官区が設けられた。1746年にバルガウはベットリンゲン代官区に組み込まれた。1802年にヴュルテンベルク王国領となり、1803年には新たに設けられたオーバーアムト・グミュントに編入された。 ベットリンゲンは1218年に初めて文献に記録されている。ここには在郷貴族ベットリンゲン家があった。ロルヒ修道院もここに土地を有していた。この村は15世紀から帝国都市グミュントに属した。当時この村はオーバーベットリンゲンとウンターベットリンゲンに分かれていた。グミュントはオーバーベットリンゲンをアムト所在地に昇格させ、代官はこの村の塔に駐在した。この塔は1813年に取り壊された。1802年にグミュントがヴュルテンベルク王国領となった後、オーバーベットリンゲンはオーバーアムト・グミュント内の独立した町村となり、ウンターベットリンゲンも部分集落としてこれに属した。1934年に町議会は、町名をベットリンゲンに改名することを決議した。 高度 630 m のフルトレ峠を越えた場所に位置するデーゲンフェルトはおそらく1200年より以前にデーゲンフェルト伯の城砦の城下町として建設された。この集落は1281年に初めて文献に記録された。1625年にクリストフ・マルティン・フォン・デーゲンフェルトが男爵となり、1716年(1710年説もある)にクリストフ・マルティン2世が皇帝カール6世により帝国伯(ドイツ語版、英語版)に任じられた。しかしデーゲンフェルト家はこの集落の半分を領していただけで、残りの半分はレヒベルク家が治めていた。両家の所領の境界はラウター川であった。この小さな川の右岸がデーゲンフェルト領、左岸がレヒベルク領であった。紛争が起こったためクリストフ・フォン・デーゲンフェルトは1597年に自分の領地をヴュルテンベルク公フリードリヒに売却した。この村はヴュルテンベルク公領で修道院管区に組み込まれ、宗教改革がなされた。1719年から1806年までの間にデーゲンフェルトのレヒベルク家領全域がヴュルテンベルクの治めるところとなり、1806年には村落全体がヴュルテンベルク王国に属し、1809年にオーバーアムト・グミュントに編入された。 グロースダインバッハは1271年と1275年に Tainbuch または Tainbuoch として記録されている。時代が経つにしたがって、クラインダインバッハ、ハンゲンダインバッハ、ヴステンリート、ラーデルシュテッテン、ヴァルダウ、ハーゼルバッハ=ゼルトハウスといった入植地が形成されていった。これらは主にロルヒ修道院に属し、修道院行政機関が統治した。しかし、帝国都市グミュントやレヒベルク家もこの地域に土地を有していた。1803年にこの村はヴュルテンベルク王国領となり、1807年にオーバーアムト・ヴェルツハイムに属すこととなった。1810年にオーバーアムト・グミュント内にグロースダインバッハ町が設けられ、グロースダインバッハ、クラインダインバッハ、ハンゲンダインバッハ、ヴステンリート、ヴァルダウ、ハーゼルバッハ=ゼルトハウス、プフェルスバッハ、レングリンゲン、ラーデルシュテッテン、シュネルヘフレ、ボイテンホーフ、ザクセンホーフ、ツィーゲルホール、ヴェッツガウがこれに含まれた。ヴェッツガウは1938年にシュヴェービッシュ・グミュント市に移管された。その後の地域再編により、プフェルスバッハはムートランゲンに、レングリンゲンはゲッピンゲン市に、シュネルヘーフェとボイテンホーフはロルヒ市に移管された。 ヘルリコーフェンは1225年に Herlekoven として初めて記録されている。この集落の西、現在のイン・デア・エック住宅地の近くにシュタウフェン家の城砦ヘルリコーフェン城があった。現在は土塁と堀の痕跡が遺っている。この集落は古くから帝国都市グミュントに属しており、イギンゲン代官区に組み込まれていた。1802年にヴュルテンベルク領となり、当初は引き続きイギンゲンの部分集落の扱いであった。ヘルリコーフェンは、1820年にフッセンホーフェンを取り込んで、オーバーアムト・グミュント内の町村となった。1938年にオーバーベービンゲンのツィンメルン居住地がこの町に合併した。シュヴェービッシュ・グミュントに合併した後、フッセンホーフェンおよびツィンメルンから分離された。 フッセンホーフェン(ツィンメルンとヒルシュミューレを含む)は1969年までヘルリコーフェンの部分集落であったが、シュヴェービッシュ・グミュントへの合併後、別の市区となった。フッセンホーフェンは1250年頃に Huzzenhovin として初めて記録されている。あるグミュント市民がその土地をゴッテスツェル修道院に売却したという内容である。その後すぐにこの村は帝国都市領となり、1802年にヴュルテンベルク領となった。この集落は、母体となったヘルリコーフェンとともに初めはイギンゲン町長の管理下に置かれたが、1820年頃にオーバーアムト・グミュント内の独立した町村ヘルリコーフェンの一部となった。ツィンメルンは、早くも839年に文献に記録されているが、1938年まで隣町のオーバーベービンゲンに属していた。 リンダッハは1328年に初めて記録されている。この集落の一部は古くからすでにヴュルテンベルク領であった。レヒベルク家はこの地域に対する権利をシェンケン・フォン・リムプルク家に売却した。その後、領主は何度も入れ替わったが、ヴュルテンベルク家が不変のレーエン領主としてこれに関与していた。ヴュルテンベルク家の支援の下、宗教改革が行われた。1751年からリンダッハは、ヴュルテンベルク領となり、アムト・ホイバッハに組み込まれた。このアムトが廃止された後はオーバーアムト・グミュントに属した。 レヒベルクは1179年に初めて記録されている。レヒベルク家は時代が経つにつれ小さな支配地域を獲得したが、しだいに多くの分家に分裂していった。15世紀にホーエンレヒベルク家が、ホーエンレヒベルク、アイスリンゲン、エシャッハ、ヴェンゲン、ホイヒリンゲンの5つのアムトを統合した。帝国直轄権を得ようとする試みは失敗したが、レヒベルク家は1607年に伯に任じられた。この地域は、1802年にヴュルテンベルク領となった。主邑レヒベルクはいくつかの付随する小集落とともに1808年にオーバーアムト・グミュント内で独立した町村を形成した。 シュトラスドルフは1269年に Strasdorf として初めて記録されている。この村はレヒベルク家に属したが、帝国都市グミュントもこの村の一部を獲得していた。このため、この村には1803年までレヒベルクとグミュントの2人の村長が存在した。グミュント部分がヴュルテンベルク領となった後、1806年にレヒベルク部分もこれに続いた。1809年に両部分は、オーバーアムト・グミュント内でシュトラスドルフ町を形成した。現在シュトラスドルフに属している小集落もレヒベルクとグミュントに分かれていた。 ヴァイラー・イン・デン・ベルゲンは1345年に Wiler として初めて記録されている。後には Im Größeren Weiler と記述されている。シュトラスドルフと同様にこの集落は、一部がレヒベルク、一部がグミュントに属した。1587年にレヒベルク家はその所領を帝国都市に売却し、その後は単独領主となった。この集落はアムト・ベットリンゲンに属し、1802年にグミュントともにヴュルテンベルク領となった。初めはベットリンゲンの管轄下に置かれたが、1807年にヴァイラー・イン・デン・ベルゲンと改名し、1819年にオーバーアムト・グミュント内の町村となった。
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