市区改正と公園整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 09:41 UTC 版)
「湯徳章紀念公園」の記事における「市区改正と公園整備」の解説
1911年に公布された「台南市区改正計画」で、城壁を撤去し幹線道路を放射状に整備し、欧米型の区画概念を導入する計画が始まった。この計画では最終的に台南を格子状の道路と複数のラウンドアバウトで網羅し、児玉像のある防火空地もラウンドアバウトに変え、都市計画の中心点として7本の道路をここから放射状に市街地の各地を結び、周辺に当時の行政機関だった台南州庁やその他大小の官公庁を集中配置するというものだった。 1916年台南市が名称を制定する際、ここは石像にちなんで「児玉公園」となる計画だった。しかし最終的に当時の所在地の表記だった大正町(中国語版)に由来する「大正公園」と定められた。 戦後、台湾が国民政府に移管されると、全都市の住所表記が改訂され、公園も日本式から中華式の「民生緑園」となった。この名称は半世紀以上使われ、現在までに最も定着した名称となっている。
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