岸和田における戦後初のアメリカ映画
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「岸和田東宝セントラル劇場」の記事における「岸和田における戦後初のアメリカ映画」の解説
第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)、セントラル映画社(CMPE, セントラル・フィルム・エキスチェンジとも)の配給するアメリカ映画を上映するため、大阪府岸和田市宮本町125番地(現在の同府同市宮本町16番地6号)に岸和田セントラルとして開館した。館主は、市内堺町1919番地1号に岸和田館を戦前から経営していた山口藤次郎(1879年 - 没年不詳)であり、観客定員数は355名、木造二階建の映画館であった。同館が立地したのは、南海電気鉄道南海本線の岸和田駅西口の斜め前であり、岸和田館のある堺町や、東宝の三番館でありヨーロッパ映画も上映した岸和田東宝劇場(のちの岸和田東宝映画劇場、本町219番地、経営・映宝興行および中平邦顕)のある紀州街道沿いの本町、松竹の二番館である第二電気館(のちの岸和田電気館、北町74番地、経営・岩崎治良)、東宝の三番館と洋画を上映した山村劇場(のちの岸和田東映劇場、北町74番地、経営・河合栄)のある北町・欄干橋付近といった戦前からの繁華街、あるいは東宝・大映の二番館である春陽館(春木泉町1560番地、経営・夜明藤一)のある紡績工場を背景とした地域ではなく、駅前至近の地であった。 同館に上映用プリントを配給したセントラル映画社は、翌1946年(昭和21年)2月28日に『キューリー夫人』(監督マーヴィン・ルロイ、1943年製作)と『春の序曲』(監督フランク・ボーゼイジ、1943年製作)を公開して、アメリカ映画の日本での公開を開始、同年3月28日には『ラインの監視』(監督ハーマン・シュムリン(英語版)、1943年製作)、同年4月18日には『エイブ・リンカン』(監督ジョン・クロムウェル、1940年製作)と、戦時中に上映できなかった未公開作品を次々に公開している。1951年(昭和26年)発行の『映画年鑑 1951』からは同館の支配人に山口藤作の名が記載されるようになり、同年12月27日にはセントラル映画社は解体されたため、同館は当面、大映および新東宝の上映館となったが、のちに日本の洋画配給が整い、洋画上映館にもどった。1952年(昭和27年)には、館名をセントラル劇場と改めた。 1957年(昭和32年)4月24日には、鍛治屋町の繁華街に岸和田大映(のちに移転して岸和田大劇、経営・同和興行)が開館し、大映二番館として興行を開始している。これによって、山直劇場(岡山町127番地、経営・西川輝男)、吉野倶楽部(下野町517番地、経営・山路美晴)、同年に岸和田東映劇場と改称した山村劇場を含め、同市内の映画館は合計9館の時代を迎える。しかしピークは短く、1961年(昭和36年)には山直劇場が、1962年(昭和37年)には岸和田東宝映画劇場(経営・照屋潔)、春陽館(経営・向井克巳)、吉野倶楽部(経営・楠原エイ)の4館が閉館し、同市内の映画館は同館を含めてわずか5館に減ってしまった。1964年(昭和39年)には、岸和田大映が同館至近の大北町に移転し、鍛治屋町の元の劇場は日活直営の岸和田日活(のちの岸和田日劇、北町195番地、経営・太陽企業)になり、市内の映画館は合計6館に微増した。この時期の同館では、1960年(昭和35年)に経営者が山口藤次郎から同館支配人の山口藤作に代変わりしており、『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』からは同館の経営が「山常興行」と記されるようになっている。山口藤作は、閉館の時期まで同館の支配人を務めた。同じく「山常興行」が経営した岸和田館でも、1962年には支配人が吉田常三郎から内藤禎一に世代交代している。
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