岸和田初の常設映画館
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1913年(大正2年)1月、大阪府泉南郡岸和田町堺町(のちの同府同市堺町1919番地1号、現在の堺町2番地15号)に開館した。1915年(大正4年)12月発行の『キネマ・レコード』には、同館の館名が掲載されている。戦後の資料である『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』には、1921年(大正10年)設立との記述があるが、同時代資料によれば上記の通りである。1922年(大正11年)11月1日、岸和田町は市制を施行して岸和田市になった。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』には同館について掲載がなく、当時の同市内の映画館として、ユニヴァーサル日本支社(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)の映画を上映した電気館(のちの岸和田電気館、北町)、帝国キネマ演芸・東亜キネマの映画を上映した吉野倶楽部(下野町)の2館のみが挙げられている。同館の立地した堺町は、岸和田城や市役所の北側、紀州街道の東側に位置し、鉄道開通や紡績工場の興る以前から発展していた地区であった。 1927年(昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和二年版』によれば、当時の同館の経営は山口藤次郎(1879年 - 没年不詳)の個人経営、支配人は吉田常三郎、観客定員数は375名、興行系統は日活であり、当時の同館で上映された代表作として、前年1926年(大正15年)2月15日に第一篇が封切られた連続剣戟映画『修羅八荒』(原作行友李風、監督高橋寿康、主演河部五郎)が挙げられている。山口藤次郎は、大阪市北区西堀川町(現在の同市同区西天満5丁目付近)出身の人物である。当時の同市内の映画館は、同館やマキノ・プロダクション作品を上映した電気館(経営・西田源次郎)、帝国キネマ演芸作品を上映した吉野倶楽部(経営・奥佐太郎)のほか、春木川沿いにあった岸和田紡績(現在のユニチカ)社員住宅の敷地内にあって松竹キネマ作品を上映した泉座(支配人・溝畑久四郎)、欄干橋南側の魚屋町にあった朝日座(旭座とも、経営・室田徳松のちに古南米蔵)の合計5館が存在した。1930年(昭和5年)には泉南郡春木町(現在の同市春木泉町)に春陽館、1935年(昭和10年)1月には同市内北町に山村劇場(のちの岸和田東映劇場)、1939年(昭和14年)2月には同市内本町に東宝映画直営の岸和田東宝映画劇場が開館している。 1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については記載されていない。当時の同館の経営は引き続き山口藤次郎と吉田常三郎が行っており、観客定員数は358名であった。
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