岸和田初の常設映画館とは? わかりやすく解説

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岸和田初の常設映画館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 15:13 UTC 版)

岸和田館」の記事における「岸和田初の常設映画館」の解説

1913年大正2年1月大阪府泉南郡岸和田町堺町(のちの同府同市堺町1919番地1号現在の堺町2番15号)に開館した1915年大正4年12月発行の『キネマ・レコード』には、同館の館名が掲載されている。戦後資料である『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』には、1921年大正10年設立との記述があるが、同時代資料によれば上記通りである。1922年大正11年11月1日岸和田町市制施行し岸和田市になった1925年大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』には同館について掲載がなく、当時の同市内映画館としてユニヴァーサル日本支社現在のユニバーサル・ピクチャーズ)の映画上映した電気館(のちの岸和田電気館北町)、帝国キネマ演芸東亜キネマ映画上映した吉野倶楽部下野町)の2館のみが挙げられている。同館の立地した堺町は、岸和田城市役所北側紀州街道東側位置し鉄道開通紡績工場興る以前から発展していた地区であった1927年昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和年版によれば当時の同館の経営山口藤次郎1879年 - 没年不詳)の個人経営支配人吉田常三郎観客定員数は375名、興行系統日活であり、当時の同館で上映され代表作として、前年1926年大正15年2月15日第一篇封切られた連続剣戟映画修羅八荒』(原作行友李風監督高橋寿康、主演河部五郎)が挙げられている。山口藤次郎は、大阪市北区西堀川町現在の同市同区西天満5丁目付近出身の人物である。当時の同市内映画館は、同館やマキノ・プロダクション作品上映した電気館経営西田源次郎)、帝国キネマ演芸作品上映した吉野倶楽部経営・奥佐太郎)のほか、春木川沿いにあった岸和田紡績現在のユニチカ社員住宅敷地内にあって松竹キネマ作品上映した泉座(支配人・溝畑久四郎)、欄干橋南側の魚屋町にあった朝日座(旭座とも、経営室田徳松のちに古南米)の合計5館が存在した1930年昭和5年)には泉南郡春木町現在の同市春木泉町)に春陽館、1935年昭和10年1月には同市内北町山村劇場(のちの岸和田東映劇場)、1939年昭和14年2月には同市内本町東宝映画直営岸和田東宝映画劇場開館している。 1942年昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制敷かれ日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、すべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については記載されていない当時の同館の経営引き続き山口藤次郎吉田常三郎が行っており、観客定員数は358であった

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