小石川上水
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神田上水は1590年(天正18年)に徳川家康の命を受けた大久保藤五郎(忠行、? - 1617年)によって開かれた。しかし、大久保藤五郎が最初に見立てた上水は小石川上水で、この上水道がその後発展・拡張したのが神田上水といわれている。 大久保藤五郎はこの功により家康より「主水」の名と「山越」と称される名馬を賜った。また、主水の名については、家康から水が濁ってはならないから、「モンド」ではなく「モント」と唱えるよう命じられた。 小石川上水の詳細は不明で、その流路及び規模に関しても定かではない。『東京市史稿 水道篇第一』には小石川上水(小石川水)が後の神田上水に拡張発展したと記している。小石川上水の開設について詳しく記述されている文献は『校註天正日記』である。 (天正十八年七月)十二日くもる。藤五郎まいらる、江戸水道のことうけ玉ハる。藤五郎ハ菓子司大久保主水忠行ノ初名ナリ。忠行東照公ノ旨ヲ承ケ、始テ玉川ノ水ヲヒキテ、小石川ノ邊ニ達セシト云ウ。是江戸水道ノ權輿ナリ。然レトモ此水路ノコト、上水記以下終ニ明解ヲ得ズ。旧説ニ玉川ヲ引クトアルハ、後時玉川上水ノ成リシヨリ相混セシモノニテ、本ヨリ謬リナリ。今下文十月四日、十二日ノ條ト相参シテ之ヲ細考スルニ、此水道ハ乃今ノ神田上水是ナリ。蓋当時此水道ヲ設クルトテ、目白台ノ下ニ堰ヲ築キ、(関口ノ名モ実ニ是ヨリ、起リテ、元和寛永ノ間ニハ已ニ村名トナレリ)高田川ヲ壅キテ其水ヲ導キ、小日向小石川湯島神田ノ台下ニ沿テ、委蛇東流シ、以テ小川町ノ邊ニ通セシナルヘシ。其頃ハ未、外郭ハ設モナク、小石川ノ水、直ニ平川ニ注キシトキノコトナレハ、下文ニ小石川ノ末トアルハ、小川町ノ邊ナルヘシ。而シテ慶長見聞集ニ、神田ノ明神山(元和ノ初マテ、駿河台観音坂ノ西ニ明神社アリ。)ノ岸ノ水ヲ東北ノ町ヘ流シ云々ハ乃此委流ナルベシ。 (天正十八年十月)四日くもる。 (中略)小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほとかゝる。 (上略)藤五郎ノ引水ハ、乃大久保ノ上水ナリ。関口ヨリ導キテ小川町ニ通セシコト故ニ、僅三数月ノ間ニ辧セシナルヘシ。後人或ハ大久保ノ上水終ニ成功ナカリシカト疑フモノハ非ナリ。(下略) 『校註天正日記』 しかし、『校註天正日記』は偽書であるといわれており、信憑性に欠けるところがある。しかも、家康が江戸入りしたのは1590年8月であり、同年10月に上水が開設したとなればあまりにも手際が良すぎる感も否めない。 『校註天正日記』の他にも『御用達町人由緒』、『武徳編年集成』、『新編武蔵風土記稿』にも大久保藤五郎が天正18年に上水を開設したことが記されている。 一、先祖 宇津左衛門五郎忠義五男 初代 大久保藤五郎忠行 後改主水 (上略)関東迄御共仕、知行三百石被下置候。御入国之節、於江戸水之手見候様ニ被仰付、小石川水道見立候ニ付、爲御褒美、主水と申名被下置候。 『御用達町人由諸』 (大久保)忠行ハ則左衛門五郎忠茂ガ五男ナリ。 (中略)天正庚寅武陽御入国ノトキ、用水ヲ窺フテ言上スヘキ旨命ゼラル所ロ、多摩川ノ清水ヲ小石川筋ヨリ是ヲ通ズベシト、其ユヘヲ委シク演ル。(下略) 『武徳編年集成』 (上略)是ヲ多摩川上水ト云。濫觴ヲ尋ヌルニ、今ノ御菓子司、大久保主水先祖大久保藤五郎忠行トイヒシモノ、(中略)天正十八年御入国ノトキ、御旨ヲウケテ、初メテ用水ヲ開キ、多摩川ノ清泉ヲ小石川筋ヘ達セシニヨリテ、名ヲ主水トメサレシヨシ。然レトモコノ時ノ水路ハ、何レナリヤ今詳カニ辨シカタシ。 『新編武蔵風土記稿』 このように信用性が問われている『校註天正日記』の他にも天正18年に上水開設を促す史料がある(『武徳編年集成』及び『新編武蔵風土記稿』にみえる多摩川の水を小石川に流すということは誤りである。)。しかし、これらの史料によって天正18年説が断定されたとは言い切れず、慶長年間に上水が開設されたと記す史料も幾多ある。 上水の濫觴 御入国後、天正文禄の頃、御目論見在て、慶長年中より水道出来、神田上水と号する。(中略) 『武蔵名所図会』 見しは昔、江戸町の跡は今大名町になり、今の江戸町は、十二年以前(慶長八年)まて、大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。町ゆたかにさかふるといへとも、井の水へ塩さし入、万民是を欺くと聞しめし、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へながし、山王山本の流れを西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ。此水をあちはふるに、たゞ是薬のいづみなれや、五味百味を具足せる、色にそみてよし、身にふれてよし、飯をかしひよし、酒茶によし、それ世間の水は必法性に帰すと云ふ。此水大海にいらずして悉く人中に流入、元来この水は、明神山王の御方便にて、氏人をあはれみわき出し給ふといへ共、人是をしらず、其上此流の中間に悪水あつて、流をけがすにより、徒に水朽ぬ。然に今相がたき君の御めぐみにより、中間の濁水をのぞき去て、清水を万人にあたへ給ふ。 『慶長見聞集』 上記の二つの文献には慶長年間に上水が開設したと記述されている。 しかし、『東京市史稿 水道篇第一』にはこの記述を上水の開設とはせず、(小石川)上水を増設したと解釈している。これに従って、この史料(特に『慶長見聞集』)は慶長年間には既に上水があったことを証明している記述と思われることが多い。 だが、天正18年開設説を否定し、家康が大久保藤五郎に上水について意見を述べるよう命じたに過ぎないとし、『慶長見聞集』の記述に沿って、慶長のころまで江戸には水道はなかったという説も存在する。
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