封じ込めと拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 04:11 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1945-1964)」の記事における「封じ込めと拡大」の解説
アメリカ合衆国では、国務省の政策企画本部長に抜擢されたジョージ・ケナンの助言によって、ソビエト連邦の封じ込めが外交政策になった。ケナンはソビエトの権力崩壊が起こるまで「あらゆる点で不変の反撃能力を」使って「封じ込める」べきと論じた。この政策は1947年3月のアメリカ合衆国議会におけるトルーマン・ドクトリン演説で表明され、アメリカ合衆国は共産主義を「封じ込める」ために40億ドルを拠出することになると論じた。これはギリシャやトルコ、イランにおける共産主義の脅威と認識されたギリシャ内戦(1946年-1949年)の最中のことだった。トルーマンは、もしギリシャやトルコがその必要とする援助を受けなければ、共産主義に屈服するのを避けられず、その結果はドミノ効果で地域一帯を共産主義者に奪われることになると警告した。トルーマンは自党である民主党の多数の支持を得ただけでなく、議会与党共和党の支持も得た。共和党の上院議員アーサー・ヴァンデンバーグが共和党の国際派議員を率い、ロバート・タフトなど孤立主義派の反対を押し切った。トルーマンは1947年5月にトルーマン・ドクトリンに署名して立法化し、トルコとギリシャに対する軍事と経済の援助として4億ドルを認めた。 1946年のシュトゥットガルト演説の後、アメリカ合衆国はドイツの占領政策に影響を与えたモーゲンソー・プランから緩りと離れ、再建政策の方向に進んだ。ヨーロッパにおける衰退した経済と政治の情勢を見たアメリカ合衆国は、1947年半ばにまず西ヨーロッパで、続いて日本(南朝鮮や台湾を含む)で経済再建を始め、1949年には西ドイツも含めた。このマーシャル・プランでは西ヨーロッパに120億ドルを割り当てた。スターリンはその衛星諸国への介入を拒み、ドイツでソビエトの占領する地域奥深くにあるベルリンを封鎖する対応を取った。軍事的対立が迫る中で、トルーマンはソビエトを国際的に孤立させるような刺激策を採った。すなわちソビエトの占領地を越えてベルリンへの大空輸を開始したのであり、これは1948年から1949年まで続いた。 アメリカ合衆国は1949年に他の11か国と共に北大西洋条約機構を結成し、アメリカ史170年間で初めてヨーロッパと「関わる」ことになった。スターリンは東ヨーロッパの経済をそのマーシャル・プランに対抗するビジョンで統合し、1949年には初の核爆発実験を行い、1950年2月には中華人民共和国との同盟条約に調印し、1955年には北大西洋条約機構に対抗する東ヨーロッパのワルシャワ条約機構を結成することで応酬した。 1949年、中国本土を支配した毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言し、その後モスクワに行って中ソ友好同盟相互援助条約の交渉を行った。 アメリカ合衆国政府はソビエトの成功が続く事態に直面して、素早く「封じ込め」を強化し拡げる動きに出た。1950年の機密文書NSC-68では、その同盟を強化し、防衛予算を4倍にし、アメリカ人がこの金のかかる冷戦を戦うことを説得するための念入りな宣伝作戦を始める提案を行っていた。トルーマンは水素爆弾の開発を命令し、その後間もなくソビエトも同様な核開発を行った。 1950年代初期、アメリカ合衆国は西ドイツ軍を結成させる計画を立て、日本との間には長期間アメリカの軍事基地を置き、東アジアでアメリカ軍を展開させることを保障する平和条約を提案した。 トルーマン・ドクトリンはアメリカがベトナムに関わるようになることにも貢献した。トルーマンはフランスがインドシナ半島の植民地を維持する動きを援助しようとした。アメリカ合衆国はフランス軍に物資を供給し、軍事アドバイザーを派遣し、第一次インドシナ戦争で共産主義ベトナム人独立運動組織ベトミンと戦うように仕向けた。
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