家出上京、農学校教員へ
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1921年(大正10年)1月23日夕方、東京行きの汽車に乗り家出。翌朝、上野駅に到着して鶯谷の国柱会館を訪ね「下足番でもビラ張りでもする」と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人の小林六太郎家に身を寄せる。本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤める。高知尾の勧めで「法華文学」の創作に取り組む。1か月に三千枚もの原稿を書いたという。食事はじゃがいもと豆腐と油揚げで、夜は国柱会館の講話を聞き、昼間の街頭布教にも参加した。保阪嘉内には入信を勧める手紙を度々送った。心配した父の政次郎が小切手を送ったが送り返した。4月、政次郎と伊勢、比叡山、奈良を旅する。政次郎は法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった。7月、保阪と決裂、以後は疎遠になる。8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の電報を受け取り、原稿をトランクに詰めて花巻に戻る。家族には原稿を「童子(わらし)こさえるかわりに書いたのだもや」と語ったという。 12月3日、稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)の教諭となる。地元では「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校だった。雑誌『愛国婦人』12月号と翌年1922年(大正11年)1月号に「雪渡り」掲載。この時受け取った原稿料5円が生前唯一の原稿料という。農学校の給料80円はレコード、書籍の購入、飲食などにあてた。下宿代として家に20円入れていたが、それも何かと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋でツケで買った上、現金を借りることもあった。同僚の奥寺五郎(1924年死去)が結核になると毎月30円送っている。また花巻高等女学校の音楽教師・藤原嘉藤治と親交を結び、レコード鑑賞や飲食を楽しんだ。 1922年(大正11年)11月27日、結核で病臥中のトシの容態が急変、午後8時30分死去。賢治は押入れに顔を入れて「とし子、とし子」と号哭し、亡骸の乱れた髪を火箸で梳いた。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。29日の葬儀は真宗大谷派の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れた。この遺骨は後に国柱会本部に納めた。それから半年間、詩作をしなかった。1923年(大正12年)7月、農学校生徒の就職依頼で樺太を旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く。
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