家出上京、農学校教員へとは? わかりやすく解説

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家出上京、農学校教員へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 15:00 UTC 版)

宮沢賢治」の記事における「家出上京、農学校教員へ」の解説

1921年大正10年1月23日夕方東京行き汽車乗り家出翌朝上野駅到着して鶯谷国柱会館を訪ね下足番でもビラ張りでもする」と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人小林六太郎家に身を寄せる本郷菊坂町下宿し東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤める。高知尾勧めで「法華文学」の創作取り組む1か月三千もの原稿書いたという。食事じゃがいも豆腐油揚げで、夜は国柱会館の講話聞き昼間の街頭布教にも参加した保阪嘉内には入信勧める手紙を度々送った。心配した父の政次郎が小切手送った送り返した4月政次郎と伊勢比叡山奈良旅する政次郎は法華経国柱会への固執見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった。7月保阪決裂以後疎遠になる8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の電報受け取り原稿トランク詰めて花巻に戻る。家族には原稿を「童子(わらし)こさえるかわりに書いたのだもや」と語ったという。 12月3日稗貫郡稗貫農学校翌年岩手県立花農学校改称)の教諭となる。地元では「っこ大学」と呼ばれた小さな学校だった。雑誌愛国婦人12月号と翌年1922年大正11年1月号に「雪渡り掲載。この時受け取った原稿料5円生前唯一の原稿料という。農学校給料80円はレコード書籍購入飲食などにあてた。下宿代として家に20円入れていたが、それも何かと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋ツケ買った上、現金借りることもあった。同僚の奥寺五郎1924年死去)が結核になると毎月30送っている。また花巻高等女学校音楽教師藤原嘉藤治親交を結び、レコード鑑賞飲食楽しんだ1922年大正11年11月27日結核病臥中のトシ容態急変午後8時30分死去。賢治は押入れに顔を入れてとし子とし子」と号哭し、亡骸乱れた髪を火箸梳いた。『永訣の朝』『の針』『無声慟哭』を書く。29日葬儀真宗大谷派の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺時に現れ担ぎ持参した丸い缶にトシ遺骨半分入れた。この遺骨は後に国柱会本部納めた。それから半年間、詩作をしなかった。1923年大正12年7月農学校生徒就職依頼樺太旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く。

※この「家出上京、農学校教員へ」の解説は、「宮沢賢治」の解説の一部です。
「家出上京、農学校教員へ」を含む「宮沢賢治」の記事については、「宮沢賢治」の概要を参照ください。

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