家制度の形骸化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
家督相続制は、二、三男をプロレタリアとして農地から強制的に投げ出すものだとの主張もあるが、日本の狭少な耕地と低い生産力、地租の重圧という諸条件の下で法律上均分相続を規定しても農民のプロレタリア化は免れないので、当を得ないと批判されている(川島武宜)。 ところが農業が生活の基礎だという状態はだんだん少なくなって来る。社会の多くの人々の職業は…サラリーマンである。…子供を育てて行くということ…が…家に残された最後の社会的機能である。…子孫のために美田を残すということは、サラリーマンには通用しない。…三万円の定期預金は…分けるということが…公平であるというだけでなく…財産の社会的ファンクションに何ら影響を与えない。 — 我妻栄、1941年(昭和16年) 明治民法の戸主権では農村解体と都市への人口流入を止められるものではなく、法律上は戸主と同じ「家」に属したまま別都市で独立の生計を営むことが常態化していたから、法曹界・法学会では、現実の夫婦・親子を中心とする小家族の保護を主眼とする改正論が主流であった。 また、家督相続制は、基準の明確さの反面、具体的事情に応じた相続を選択しづらいのが難点であった。 そこで、穂積陳重や富井、穂積重遠らが社会の実態に合わせた改正に取り組み、1925年(大正14年)の「親族法改正要綱」「相続法改正要綱」を経て、家族員が戸主の居所指定に従わないときでも「裁判所の許可」のあるときに限り離籍できるとした改正案が成立(昭和16年改正法)。翌年には私生児の名称も廃止された。 梅が予見したほどには家制度の解体が速やかに進行しなかったのは、日本の殖産興業を支えた女工が「家」と深く結びついていたことと、大恐慌に際して「家」が失業者を収容し、帰農させる社会的役割を果たしたためであった(福島)。
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