宮津藩(加悦谷)の動向
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「丹後ちりめん」の記事における「宮津藩(加悦谷)の動向」の解説
機業を保護・奨励した峰山藩と異なり、他領も含めて7万石の宮津藩に属する加悦谷地方の丹後ちりめんは苦難の道をたどった。当時の宮津藩主であった青山氏は、機業はあくまで副業との認識から、西陣など外部勢力の妨害に対しては保護政策をとったが、一方では、機業を行う農民に対して「農耕を怠っている」として圧力をかけ続け、創織後28年目の1749年(寛延2年)には、機業停止の弾圧を行った。前述のとおり自然条件から農耕だけでは暮らしが維持できない算所村を中心に、加悦谷の農民達は、逃散も辞さない構えで藩と交渉を重ね、年貢の不足は縮緬の代銀で納入すると申し出てなんとか機業を続けられることになったが、その代償として過酷な「機方運上(営業税)」を取り立てられることとなった。機業停止の命令はその後も2~3度あり、農民側はその都度「御免」を陳情し、多額の税金を負担した。1759年(宝暦9年)、青山氏から本荘氏6万石へと藩主が代わっても方針は変わらず、農民の暮らしを絞り続けた。1762年(宝暦12年)には許可を得たもの以外は縮緬を織ってはならないとする「機株」制度を設け、1775年(安永4年)には機数改めが行われて一機あたり40匁が課税された。そのような圧政にあっても、加悦谷地域において機業は生活のために欠くことのできない生業であり、1軒で複数の機を持つことも多かった。宮津藩領内の機数は、1771年(明和8年)には302台に達し、その半数近くを発祥の地である加悦谷の三河内村・加悦村・後野村が占めていた。機数はさらに増え、1803年(享和3年)には、宮津藩領内全体で979台、このうち加悦谷地域が743台を占めていた。 本荘氏の5代目藩主、1808年(文化5年)に25歳で家督を継いだ本荘宗発は、田舎大名としては異例の出世街道を突き進んだが、その陰には莫大な賄賂献金があったといわれており、宮津藩の財政は火の車だった。そのため、「六公四民」とよばれる米の収穫高の6割を年貢として納めさせる元々の公租年貢に加え、「お講」「お頼み銀」と次々に税を課し、ときに先納を命じた。「御預け米」と称されたその先納は、毎年、米1万5千俵を前納させるものだったが、さらに「追先先納」と称して1万5千俵をとりたてる決定も下された。もともと土地が痩せていて農耕だけでは暮らせないがゆえに機を織る土地柄で、米3万俵の先納は容易に受け入れられることではなかった。1821年(文政4年)には莫大な献金の必要が生じたことから、領内を国勢調査し、男女7歳以上70歳以下の者すべてから1人1日銭2文の人頭税「万人講」を徴収した。この人頭税も当初は3文徴収することが計画されたもののさすがに無茶と反対する家老もあり、2文になったものと伝えられる。 加悦谷の農民が重税にあえぐ一方で、藩権力と結びついた岩滝村(現・与謝野町岩滝)や宮津城下の有力商人の多くが無制限に闇機をつくり、それまで機方のなかった村にまで闇機をはやらせて粗製濫造し、寛政の改革後の品不足の中でそれらの悪質なちりめんを売りさばいて富を築いていた。1822年(文政5年)12月に勃発した丹後地方では史上最大規模の百姓一揆、いわゆる文政一揆は、このような宮津藩の圧政と、藩権力と結びついた商人への怒りが背景にある。文政一揆では、闇機業・闇売買を行っていた商人のことごとくが打ちこわしにあった。その数は5日間で55軒とも60軒余とも記録されている。文政一揆は農民側の完全勝利で終結し、追先先納と万人講は廃止された。しかし、一揆の首謀者に対する詮議は直後に始められ、最終的に一揆を主導した吉田新兵衛以下農民5名が死罪又は永牢となり、貢租の軽減を主張していた藩政改革派の宮津藩家老・栗原理右衛門とその子息も格禄取り上げのうえ入牢となった。このほか幾人かが追放などの処分を受けた。
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