学術的検証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 15:17 UTC 版)
過去の発掘調査などの結果から、ナンマトル一帯に人が住むようになったのは紀元前後のことで、メラネシアから移ってきたと推測されており、ラピタ人の流れを汲むとも言われている。 人工島の建設開始は西暦500年頃のことだが、そのときの背景などは未解明である。急拡大は西暦1000年頃からだったと考えられており、それが同時にシャウテレウル朝の成立期と考えられている。その頃から1200年頃が首長制の確立期で、その首長制のもとでの儀式は、1200年から1300年頃に始められたと考えられている。 オロシーパとオロショーパの出自が、本当にチェムェン島の外だったかどうかにも議論があり、伝説的な地カチャウと結びつけることで権威を正当化する意図があった可能性も指摘されている。海上に人工島を築いた理由も、地縁などから切り離された権力の確立や、神聖性の強化を志向したのではないかと考えられている。こうした神聖性の強調は、ナンマトルの例外性と結びつく可能性がある。オセアニアの島嶼における政治権力は、農業の集約化と結びついて発展してゆくのが一般的とされ、シャウテレウル朝も確かにパンノキの品種改良による生産力増大や人口増加を背景としていた可能性は指摘されるものの、人工島群に築かれたナンマトルそのものは農業生産力に乏しく、その権威の拠り所は農業ではなく、儀式を通じて示される非物質的な力だったと考えられるからである。 ナンマトルの遺跡群を構成する石材は、サイズによって差があるが5トン(メトリックトン)から25トンほどとも言われ、最も重いものでは推計90トンにもなる。その石切り場は、遺跡から2 kmに位置するマトレニーム湾、十数 km 離れたチェムェン島の反対側などが挙がっており、21世紀に入ってからは、蛍光X線元素分析法を利用して産地やその変遷を特定する試みなども行われ始めている。しかしながら、それらの場所から巨石をどう運んだのかについては、カヌーに吊り下げて運んだという説などがあるものの、詳しい方法は確定しておらず、運んだ巨石を人工島で積み上げていった手法も不明である。少なくとも、彼らは金属器を持たず、水準器、滑車、車輪のいずれも利用していなかったらしい。 シャウテレウル朝が最盛時に支配していた人口は、25,000人ほどであったと見積もられている。そのうちのエリート層や司祭者がナンマトルに居住し、それがナンマトルの主要な機能であったが、前述のように人工島は農業生産力に乏しいため、食料はポンペイ島からの貢納に依存していた。その貢納や、労役が過大になっていったことが、シャウテレウル朝の終焉に結びついたと推測されている。シャウテレウル朝の終焉、すなわちイショケレケルの到来がいつなのかは、細かく絞り込まれてはいないが、1500年から1600年ごろのことであったと考えられており、巨石記念物群の建設もその頃に終息している。 イショケレケルが生まれ育った「風上のカチャウ」について、実在のコスラエ島とする説がある。それに対し、「風上のカチャウ」はポンペイ島より東のあらゆる島を指す語だったとする反論もあり、イショケレケルの軍勢が本当にポンペイの外から来た勢力だったかどうかすら、学術的には確定していない。つまりは、オロショーパ兄弟同様、神聖化の一環で外来勢力を標榜した可能性もある。 シャウテレウル朝の滅亡後も、マトレニームの初期のナーンマルキはナンマトルに居住していたらしい。しかし、19世紀にヨーロッパ人が本格的に到来した頃には、居住地としては使われなくなっていた。口承では、7代目のナーンマルキの時に、台風に被災したことがきっかけで居住地を移したとされ、それは18世紀初頭の頃と考えられている。もっとも、より現実的な理由として、ナンマトルでの居住が外部からの貢納を前提とするのに対し、シャウテレウル朝と違ってポンペイ全土を支配できなかったマトレニームのナーンマルキは、生活に十分な貢納を維持できなかったとする推測もある。
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