女子柔道実業団の立役者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 07:44 UTC 版)
当初は自前の専用道場もなく出稽古が中心、初年度の部員は持田典子1人という状況で始まった住友海上柔道部だったが、翌年には外国人2人を含む10人が入部するなど軌道に乗り始めると、柳沢は1日24時間を女子柔道のために尽力し汗を流した。1996年7月23日にはアトランタ五輪の軽中量級に出場した教え子の恵本裕子が快進撃を続け、日本女子柔道史上初めての五輪での金メダルを獲得。奇しくも柳沢49歳の誕生日であった。新聞記者から「(金メダルは)永年やってきたプレゼントですね」と問われた柳沢は、当時の心境を「金メダルそのものの嬉しさよりも、女子柔道もついにここまできたか」と感無量の想いに浸ったと語っている。その後も同社柔道部からはシドニー五輪に上野雅恵を送り、アテネ五輪では横沢由貴が銀メダル、上野雅恵が金メダル、北京五輪では上野雅恵が2連覇を達成したほか中村美里が銅メダルを獲得しており、三井住友海上火災を女子柔道の名門実業団に育てた柳沢自身も理論派の名伯楽としてその名を知られた。 田村亮子などスター選手の台頭もあって男子に引けを取らない人気を博した女子柔道だが、一方で柳沢は「(最近の選手達が)強ければいいと思っているフシがあるが、柔道人から礼法を取ったらただの野蛮人」「特に女子選手にはそうはなってほしくない」と戒め、柔道以外では“女らしく”を心掛けて道場以外では柔道をやっているような振る舞いや服装をさせないよう指導している。同時に、母親が柔道の良さを知って娘にやらせたいと思い、父親もごく自然な形で理解を示すような“柔道”を理想とし、指導者達に対しても、「おい」「こら」など親から娘を預けても大丈夫かと疑念を抱かれるような指導は慎むべきと説く。2013年に女子強化選手への暴力問題が明るみに出た際には「以前は選手を“使う”と表現しても怒られた」「今の強化委員はみんな辞めた方がいい」とバッサリ断罪した。 自身が電気通信大学の教授(のち名誉教授)を務めていた関係で、選手育成の一環で柔道に使う筋肉を鍛えるために10台以上のトレーニングマシーンを開発し、うち2台は特許も取得している。選手達からアイディアを募り、時にはネーミング選考会も実施して「どすこいバー」「スクワッショい」といったユニークなマシンが生まれた。「柔道はやっぱり面白くなきゃね」と柳沢は語る。2002年にはアテネ五輪での金メダル獲得を目指して知能機械工学科の学生らと共にプロジェクトチームを立ち上げるなどした。また、選手の成長には発想力が必要で教養こそがその土台になるとの持論から、現在の三井住友海上火災保険柔道部員達には海外選手とのコミュニケーションを図れるようにとの目的で週1回英会話の授業を設けており、このほか漢字や時事問題、運動生理学や情報管理に至るまで試験を義務付けていて別名“三井住友大学”の異名を取る。柔道の選手生活が終わってからの人生の方が長い事を踏まえ、引退後も会社に残って仕事が続けられるようにとの配慮からであり、そこには単に柔道指導者という枠に納まらず人生の教育者としての柳沢の顔が見え隠れする。
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