契約における業績
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「スコット・ボラス」の記事における「契約における業績」の解説
最初に手がけた依頼人の内の一人、1983年のMLBドラフト全体1位指名のティム・ベルチャーは、ボラスのアドバイスに従い、ミネソタ・ツインズが出した前年の全体1位指名のショーン・ダンストンと同額の10万ドルを1965年のリック・マンデイからあまり額が上がっていないことを理由に拒否。15万ドルのボーナス契約を要求した。この事がきっかけとなり1990年代以降ドラフトで数百万ドルのボーナス契約を要求する事が慣例となった。 1991年のドラフトでニューヨーク・ヤンキース1巡目、全体1位で指名された高校生左腕のブリエン・テイラーはボラスのアドバイスに従い「契約しなければ進学する」と発言し、ボラスは120万ドルの契約金を要求した。これに対して当時職務停止処分を受けていたヤンキースのオーナージョージ・スタインブレナーがメディアを使って金額度外視で契約するように球団に圧力をかけたこともあり、進学予定の短大が始まる前日に当初の設定金額を上回る155万ドルのボーナス契約を結んだ。この金額は前年の全米1位指名選手で高校生遊撃手であるチッパー・ジョーンズのボーナスの5倍を大きく上回り(ジョーンズの契約金は27.5万ドル)、テイラーは史上初の契約金が100万ドルを超えた新人選手となった。テイラーは怪我もあってメジャーに一度も昇格することなく2000年に現役を引退したが、ボラスは「テイラーは今でも私が見た中で最高の高校生投手である」とテイラー引退後の2006年に語っている [5]。 詳細は「ブリエン・テイラー」を参照 1996年6月のMLBドラフトではマット・ホワイト、トラビス・リー、ジョン・パターソン、ボビー・シーエイの1巡目指名4選手が実はフリーエージェントの権利を取れるという規則上の抜け穴を見つけ出し、ホワイトはタンパベイ・デビルレイズと新人選手としては史上最高額となる1020万ドル、シーエイは同じくデビルレイズと300万ドルの契約を結んだ。 1997年にはニューヨーク・メッツが1巡目(全体6位)指名予定だったリック・アンキールを代理人がボラスであった事から見送っている(アンキールはその後2巡目(全体72位)でセントルイス・カージナルスに指名された)。 もう一人のクライアント、J.D.ドリューは当初指名を予定していたチームと契約できず、ボラスは次の候補としてフィラデルフィア・フィリーズに目をつけた。ボラスはチームに対して1,100万ドルの要求をしたがこれは結局蹴られ(フィリーズの提案は300万ドル)、ドリューは独立リーグで1年間のプレーを余儀なくされた。次のシーズン、ボラスは独立リーグでの経験からドリューがフリーエージェントであると主張したが認められず、ドラフトにてセントルイス・カージナルスと800万ドルの契約を結んでいる。 2004年にはドリューの弟であるスティーブン・ドリューとジェレッド・ウィーバーがクライアントとなったが、ドラフトでの契約でもめて2005年へ持ち越しになる寸前まで締結できなかったため、この年はプロとしてのキャリアをスタートできなかった。 ドラフトではないものの、2006年のポスティングシステムによる松坂大輔のボストン・レッドソックスへの入団交渉においても、同チームオーナーであるヘンリーの自家用機で交渉が行われていたが、交渉期限10分前になってもチーム側提示額とボラス側の要求額には開きがあり(6年5500万ドルを要求していた)交渉期限3分前で松坂自身から「金額よりも入団が先」とボラスにストップをかけギリギリで交渉成立となった。 2007年は松坂の契約を交渉の引き合いに出し、ワシントン・ナショナルズからドラフト指名されたスティーブン・ストラスバーグの入団交渉で総額5000万ドルという史上最高の金額を要求した。
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