天狗党の西上とは? わかりやすく解説

天狗党の西上

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「天狗党の西上」の解説

大発勢の解体那珂湊での敗戦により挙兵勢力大混乱陥るが、脱出成功した千人余り水戸藩北部大子村茨城県大子町)に集結する。ここで武田耕雲斎首領に、筑波勢の田丸稲之衛門藤田小四郎副将とし、上洛禁裏御守衛総督一橋慶喜通じて朝廷尊皇攘夷の志を訴えることを決した耕雲斎らは、天狗党度重なる兇行によって深く民衆恨みを買い、そのため反撃遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れるに対して放火略奪殺戮禁じるなどの軍規定めた道中この軍規がほぼ守られたため通過地領民安堵し好意的に迎え入れる町も少なくなかった天狗党11月1日大子出発し京都目標下野上野信濃美濃と約2ヶ月の間、主として中山道通って進軍続けた田沼意尊率い幕府軍本隊は、天狗党太平洋側への侵入を防ぐため東海道西進する一方天狗党進路上に位置する諸藩に対して天狗党追討令を発した。ところがこれらの藩はそのほとんどが小藩だったこともあって、天狗党通過して行くのを傍観したばかりか、密かに天狗党交渉し城下通行避けてもらう代わりに軍用金差し出した藩が出る有様で、結局追討令に従い天狗党攻撃したのは高崎藩などごく一部の藩のみであった武蔵国岡部藩11月11日天狗党接近察し、藩兵数十人および大砲二門を配備して領内本陣構えていた。13日中瀬村深谷市中瀬)に渡河してきた天狗党対し岡部藩夜襲仕掛けて撃退し佐藤長次郎捕縛し数名を討取った。翌14日戦闘岡部藩勝利し天狗党逃走した佐藤12月17日処刑された。 11月16日上州下仁田において、天狗党追撃して来た高崎藩200人と交戦した激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した下仁田戦争)。また、11月20日には信州諏訪湖近く和田峠において高島藩松本藩兵と交戦し双方とも10人前後の死者出した天狗党勝利した和田峠戦い)。天狗党一行伊那谷から木曾谷抜け東山道進み美濃鵜沼宿岐阜県各務原市付近まで到達するが、彦根藩大垣藩桑名藩尾張藩犬山藩などの兵が街道封鎖開始したため、天狗党中山道外れ北方迂回して京都へ向って進軍続けた天狗党頼みの綱とした一橋慶喜であったが、慶喜は自ら朝廷願い出て加賀藩会津藩桑名藩4000人の兵を従えて天狗党討伐に向った。揖斐宿(岐阜県揖斐川町)に至った天狗党は、警備厳重な琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し帽子峠(岐阜県本巣市福井県大野市)を越えて越前入り大きく迂回して京都目指すルート選んだ12月2日(1864年12月31日)に圓勝寺(岐阜県本巣市金原)に宿泊した際には、薩摩藩士の中村半次郎面会している。越前諸藩のうち、藩主国許不在であった大野藩関東諸藩同様に天狗党やり過ごす方針を採ったが、鯖江藩間部詮道福井藩筆頭家老府中領主本多副元天狗党殲滅する方針固め、兵を発して自領に通じる峠を厳重に封鎖し天狗党敦賀方面進路変更するそのまま追撃入った

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