天狗党の乱と落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 22:14 UTC 版)
元治元年(1864年)4月、水戸藩の支藩である宍戸藩第8代藩主松平頼徳は水戸藩第10代藩主徳川慶篤の命を受け、水戸表の騒乱の制圧に乗り出した際に、心ならずも尊王攘夷派の天狗党(筑波勢)と合流することになった。幕府は同年6月に筑波勢追悼令を発出、頼徳らは那珂湊(現在の茨城県ひたちなか市)で佐幕派の諸生党と交戦になり、同年8月助川海防城第3代城主山野辺義芸に来援状を送った。義芸はこれを受けて水戸へ進軍したが、諸生党に水戸城入城を拒まれ助川海防城に戻った。諸生党から報告を受けた幕府は、助川海防城へ討伐軍を送り、山野辺軍は応戦したが、同年9月に義芸は幕府軍に投降した。城に残った残党が抵抗を続けたが、最後には城に火を放って逃走し、助川海防城は築城後わずか28年で灰燼に帰した。
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