天狗信仰と仙境異聞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:57 UTC 版)
「愛宕神社 (笠間市)」の記事における「天狗信仰と仙境異聞」の解説
文政6年(1823年)、平田篤胤が天狗小僧寅吉に取材した「仙境異聞」を出版し、そこに「岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗」がいると描き、江戸の文化人に霊界としての「岩間山」の存在が知られるようになった。同書は、愛宕神社は「愛宕宮」といい、後ろに「本宮」と呼ばれる「唐銅の六角なる宮」があり、周りに「十三天狗の宮」があると描いている。ただし、飯縄権現に関する言及はない。 飯綱神社の由緒は、新編常陸国誌に記録された夷針神社の口碑以外は不明だが、中近世にかけて、飯縄権現として、愛宕神社(愛宕権現)とともに天狗信仰と修験道の社を構成したものと考えられる。愛宕山には愛宕飯縄の二つの天狗信仰が同居していた。 文政7年(1824年)、瓦谷村(現在の石岡市瓦谷)の常明山雲照寺(真言宗豊山派)山主、明浄の勧進により「六角殿」が建立された。一方「仙境異聞」には、既に「唐銅の六角なる宮」があると記されている。なお、明治期に廃寺となった旧別当の密蔵院(宗派は真言宗、号は愛宕山勝軍寺)と、明浄が山主であった雲照寺には本末の関係があった。密蔵院は岩間下郷にある不動院(宗派は真言宗、号は三学山岩埼寺)の末寺、不動院は雲照寺の末寺、雲照寺は醍醐三宝院の末寺だった。五霊地区に密蔵院の旧跡があり、戦後まで悪態まつりの行屋として使用されていたという。 文政10年(1827年)の「常州茨城郡泉邑愛宕山絵図」には、当時の賑わいが描かれている。新編常陸国誌の愛宕山の項には「愛宕は世人多く之を崇敬し、参詣常に絶えずと云ふ」、大日本地名辞書の愛宕山の項には「山高きにあらざるも、山中に愛宕神を祭り、香火熾盛なり、一名風穴山といふ」、岩間便覧には「火防の主神として霊験顕著なりとし、遠近の老若参詣する者夥しく、陰暦正月24日の縁日の如きは非常の雑踏を踏む」「文人墨客の登山するもの常に絶ゆることなし」とあり、江戸末期から明治大正にかけて、多くの参拝者が訪れていた。氏子によれば、成田山新勝寺に並ぶほどの隆盛があったと伝えられており、いわば当時の流行神だった。笠間市の解説にも、一時的な賑わいであったという旨があえて記されている。
※この「天狗信仰と仙境異聞」の解説は、「愛宕神社 (笠間市)」の解説の一部です。
「天狗信仰と仙境異聞」を含む「愛宕神社 (笠間市)」の記事については、「愛宕神社 (笠間市)」の概要を参照ください。
- 天狗信仰と仙境異聞のページへのリンク