天狗信仰
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愛宕修験では天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。藤原頼長の日記『台記』にも愛宕山の天狗信仰に関する記載がみられる。若宮を太郎坊大権現と称してカグツチをイザナミの第五皇子であるとしその化身が愛宕太郎坊であるとされた。(第五とするのは日本書紀の記述より天照、月読、蛭児、素戔嗚の順でその次の弟とされる為)また、神武天皇が長脛彦を撃破した際、現れた金鵄もまたカグツチの化身であるとされた。なお東京都港区の愛宕神社 (東京都港区)では、愛宕太郎坊は猿田彦の化身とされている。
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天狗信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:00 UTC 版)
修験道が盛んになると金毘羅権現の眷属は天狗とされた。『和漢三才図会』には「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と記された。また、戦国時代末に金毘羅信仰を中興した金光院第四代院主で修験者でもあった金剛坊宥盛(1613年没)は、1606年自らの像を作って本殿脇に祀り、亡くなる直前に神体を守り抜くと誓って天狗になったとの伝説も生まれた。 本殿の神体は秘仏で、宥盛像も非公開だったので、その後、法衣長頭襟姿の宥盛像が金毘羅権現そのものと思われるようになった。その宥盛像は廃仏毀釈で明治5年に他の仏像仏具とともに浦の谷において焼却されたとされるが、その時、宥盛像を火中に投じると暴風が起き周りの者共は卒倒したという。なお、奥社で今でも祀られているとも云われている。 江戸時代になると、天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者(行人)が全国を巡って金毘羅信仰を普及した。また、全国各地から讃岐国象頭山金毘羅大権現を詣でる金毘羅参りの際には、天狗の面を背負う習俗も生まれた。 今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれる(他は八栗寺の中将坊と白峯寺の相模坊)。
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