天狗党通過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 15:09 UTC 版)
11月1日、水戸藩内の抗争に敗れた武田耕雲斎以下天狗党800余名は、京に駐在する一橋慶喜を頼ることに決し、中山道、美濃路を通って京へ向かった。ところが、美濃国鵜沼において彦根藩と大垣藩に抵抗され、そこから北へ転じて越前国へ向かった。 12月1日、福井藩からの急飛脚で天狗党が美濃・越前国境に迫ったことを知った大野藩は混乱した。軍事惣督の内山隆佐を亡くしたばかりの時期で、また藩主利恒は江戸にあった。残る重臣たちは、藩兵をかき集めても200名ほどしかなく、天狗党には到底抵抗しきれないと判断し、天狗党の予想進路に当たる村落を全て焼き払うことを決定した。こうして無意味な焦土作戦が実行に移され、12月4日に上秋生村全軒、下秋生村6軒、中島村93軒、上笹又村・下笹又村全軒と、民家203軒が大野藩兵によって焼き払われた。このうち、国境に近い上秋生、下秋生は手違いで天狗党の通過後に放火され、村人の怒りを買った。この焼き討ちは「浪人焼け・西谷焼け」と言われ、居住していた村人の子孫は、今日でも土井家関係の祭りには参加しないという。 12月5日、大野藩は福井藩と勝山藩に援軍を求め、大野藩兵は後退して天狗党と睨み合いになったが、後日大野の町年寄・布川源兵衛を使者に立て、大野城下を通らないよう交渉させた。結局、大野藩が2万6千両を軍資金として支払う代わりに、天狗党が他領へ去ることで決着した。
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