天狗党の乱討伐とは? わかりやすく解説

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天狗党の乱討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 08:14 UTC 版)

諸生党」の記事における「天狗党の乱討伐」の解説

元治元年1864年3月改革派激派の藤田小四郎らが筑波山挙兵すると(天狗党の乱)、危機感抱いた門閥派の市川三左衛門佐藤信近図書)、朝比奈泰尚弥太郎)鈴木重棟石見守)らが改革派排撃始めた7月幕府天狗党追討令を出し常陸下野諸藩出兵命じると、市川らは弘道館諸生中心とする部隊組織して天狗党討伐開始した。ここで諸生の党、すなわち諸生党が反天狗党総称となり、水戸藩領内各地士民諸生党側と天狗党側に分かれて抗争始まった諸生党軍は下妻近く多宝院藤田天狗党軍の夜襲を受けるなどして敗走水戸逃げ帰る水戸城占拠し天狗党加わっている者の一族屋敷放火し残っていた家人投獄した。これを聞いた天狗党水戸城迫ってくると、諸生党城下迎撃勝利したこの内鎮静のため、京都にいる藩主慶篤の名代として宍戸藩松平頼徳幕命により水戸下向する。しかし、一行中に武田耕雲斎改革派要人加わっており、改革派士民多く同行していたため、改革派主導権握られることを恐れた市川らは戦備整えて一行入城拒絶。頼徳は入城させるよう市川交渉する実らず戦闘が終わる気配はなかった。やむなく頼徳は那珂湊退き天狗党合流する幕命受けた頼徳を敵に回したことで叛逆罪に問われることを防ぐため、諸生党幕府働きかけ天狗党と共に徳一行も討伐対象とすることに成功し水戸城下で戦闘繰り返した10月諸生党田沼意尊を将とする幕府討伐軍の応援得て那珂湊包囲し、ついに天狗党敗走させた。一橋慶喜仲介頼り天狗党京都去り諸生党藩政掌握する天狗党やその協力者弾圧進めた12月藤田天狗党一行越前敦賀討伐軍に降伏し、その多く処刑され乱は鎮圧された。諸生党藤田小四郎武田耕雲斎らの首を水戸移して罪人として晒し、乱に加担した者の家族処刑した

※この「天狗党の乱討伐」の解説は、「諸生党」の解説の一部です。
「天狗党の乱討伐」を含む「諸生党」の記事については、「諸生党」の概要を参照ください。

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