天狗党の乱討伐
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元治元年(1864年)3月、改革派激派の藤田小四郎らが筑波山で挙兵すると(天狗党の乱)、危機感を抱いた門閥派の市川三左衛門、佐藤信近(図書)、朝比奈泰尚(弥太郎)、鈴木重棟(石見守)らが改革派の排撃を始めた。7月、幕府が天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じると、市川らは弘道館諸生を中心とする部隊を組織して天狗党の討伐を開始した。ここで諸生の党、すなわち諸生党が反天狗党の総称となり、水戸藩領内各地で士民が諸生党側と天狗党側に分かれての抗争が始まった。 諸生党軍は下妻近くの多宝院で藤田ら天狗党軍の夜襲を受けるなどして敗走。水戸へ逃げ帰ると水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火し、残っていた家人を投獄した。これを聞いた天狗党が水戸城に迫ってくると、諸生党は城下で迎撃、勝利した。この内乱鎮静のため、京都にいる藩主慶篤の名代として宍戸藩主松平頼徳が幕命により水戸へ下向する。しかし、一行の中に武田耕雲斎ら改革派の要人が加わっており、改革派の士民も多く同行していたため、改革派に主導権を握られることを恐れた市川らは戦備を整えて一行の入城を拒絶。頼徳は入城させるよう市川と交渉するが実らず、戦闘が終わる気配はなかった。やむなく頼徳は那珂湊に退き天狗党と合流する。幕命を受けた頼徳を敵に回したことで叛逆の罪に問われることを防ぐため、諸生党は幕府に働きかけ天狗党と共に頼徳一行も討伐対象とすることに成功し、水戸城下で戦闘を繰り返した。10月、諸生党は田沼意尊を将とする幕府の討伐軍の応援を得て那珂湊を包囲し、ついに天狗党を敗走させた。一橋慶喜の仲介を頼りに天狗党が京都へ去り、諸生党が藩政を掌握すると天狗党やその協力者の弾圧を進めた。 12月、藤田ら天狗党一行が越前敦賀で討伐軍に降伏し、その多くが処刑され乱は鎮圧された。諸生党は藤田小四郎や武田耕雲斎らの首を水戸に移して、罪人として晒し、乱に加担した者の家族を処刑した。
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