大演習統監とは? わかりやすく解説

大演習統監

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 07:20 UTC 版)

明治天皇聖蹟」の記事における「大演習統監」の解説

1890年3月30日から4日間、第1回陸海軍聯合演習愛知県半田西三河一帯行われた。この大演習日本の軍事力を世界に示すために計画された。陸海軍西軍侵入軍)と東軍日本軍)の両軍分かれ両軍艦隊伊勢湾と衣ヶ浦湾で海戦行い侵入軍が武豊上陸して東進し、これを阻もうとする日本軍との間で阿久比川挟んで攻防戦繰り広げるという流れであった明治天皇は大演習統監のため愛知県下に行幸し、まず大本営真宗大谷派名古屋別院に置き、戦機進展に伴い半田町大本営移した天皇宿泊所は半田大本営呼ばれ大富豪小栗富次郎の邸宅置かれた。天皇3月30日ここに宿泊し、翌31日乙川と雁宿で大演習統監した。 天皇はこの日午8時30分愛馬金華山乗り半田大本営出発した参謀総長熾仁親王内閣総理大臣陸海軍幕僚らが天皇陪従した。前夜から大雨降り、朝からますます激しくなった。天皇は少しも厭わず風雨冒し道路泥濘気にせずに馬を縦横馳せらせて演習観覧した。初め天皇半田大本営出発して演習地に向かうと、供奉文武諸官はいずれ豪雨泥濘とに阻まれ天皇についていけず、熾仁親王一人随従した。天皇親王とともに乙川村を一旦過ぎ、戻って来て乙川村白山社境内に到ってここで観戦したこの間事情について村民伝えところによれば、天皇は、馬を進めていくうちに砲声次第遠ざかったので、道端農夫命じて観戦便宜な場所へ案内させた。農夫天皇白山社境内台地導いた農夫相手貴人天皇であるとは知らなかった飲み物求められたので山下清光庵に行って携えて戻ると、既に文武諸臣天皇左右に集まっていた。農夫近づくことを許されず、事情述べて侍従の手経て差し上げた。それで相手天皇であることを知り驚き畏み退いたという。 時に勢は盆を覆すようだった天皇外套着ていたが頭巾用いず雨水滴って服を濡らした侍従天皇手拭いを渡すと、天皇左手帽子傾け右手で顔を拭った侍従手拭い受けて絞ると雨水瀧のようだった。天皇は馬から降り雨中立って統監すること数十であった天皇乙川台より半田町雁宿山の高地に馬を進めた時に止んだ降ったりした。天皇は顔に注ぐ手ずから払いつつ両軍交戦状況統監した。統監終えて半田大本営戻り昼食をとって名古屋向かった当時官報掲載され記事によると、天皇前日から軍艦乗って海戦統監していたので疲労していたはずだが、午前8時30分から1130分まで少しも休まず雨中統監労を執った。これを拝観した多数臣民は「三軍労苦分かち遊ばせらるる至仁至聖・允文・允武の盛徳には感泣悦服せざる者あらざりけり」ということだった。豪雨の中、頭巾被らず演習統監した明治天皇勇姿国定教科書掲載され全国知れ渡った。たとえば1920年文部省発行尋常小学修身書 児童用 巻四」では「明治二十三年愛知県で大えんしふのあつた時、明治天皇ははげしいのふるなかで、へいしと同じやうに御ずきんもめされず御統監になりました」という記述であった

※この「大演習統監」の解説は、「明治天皇聖蹟」の解説の一部です。
「大演習統監」を含む「明治天皇聖蹟」の記事については、「明治天皇聖蹟」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大演習統監」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大演習統監」の関連用語

大演習統監のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大演習統監のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの明治天皇聖蹟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS