大演習統監
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1890年3月30日から4日間、第1回陸海軍聯合大演習が愛知県の半田と西三河一帯で行われた。この大演習は日本の軍事力を世界に示すために計画された。陸海軍は西軍(侵入軍)と東軍(日本軍)の両軍に分かれ、両軍艦隊が伊勢湾と衣ヶ浦湾で海戦を行い、侵入軍が武豊に上陸して東進し、これを阻もうとする日本軍との間で阿久比川を挟んで攻防戦を繰り広げるという流れであった。 明治天皇は大演習統監のため愛知県下に行幸し、まず大本営を真宗大谷派名古屋別院に置き、戦機の進展に伴い半田町に大本営を移した。天皇の宿泊所は半田大本営と呼ばれ、大富豪小栗富次郎の邸宅に置かれた。天皇は3月30日ここに宿泊し、翌31日に乙川と雁宿で大演習を統監した。 天皇はこの日午前8時30分、愛馬金華山に乗り、半田大本営を出発した。参謀総長熾仁親王・内閣総理大臣・陸海軍全幕僚らが天皇に陪従した。前夜から大雨が降り、朝からますます激しくなった。天皇は少しも厭わず風雨を冒し、道路の泥濘を気にせずに馬を縦横に馳せらせて演習を観覧した。初め天皇が半田大本営を出発して演習地に向かうと、供奉の文武諸官はいずれも豪雨と泥濘とに阻まれて天皇についていけず、熾仁親王が一人で随従した。天皇は親王とともに乙川村を一旦過ぎ、戻って来て乙川村の白山社境内に到ってここで観戦した。 この間の事情について村民の伝えるところによれば、天皇は、馬を進めていくうちに砲声が次第に遠ざかったので、道端の農夫に命じて観戦に便宜な場所へ案内させた。農夫は天皇を白山社境内の台地に導いた。農夫は相手の貴人が天皇であるとは知らなかった。飲み物を求められたので山下の清光庵に行って茶を携えて戻ると、既に文武諸臣が天皇の左右に集まっていた。農夫は近づくことを許されず、事情を述べて侍従の手を経て茶を差し上げた。それで相手が天皇であることを知り、驚き畏み退いたという。 時に雨勢は盆を覆すようだった。天皇は外套を着ていたが頭巾を用いず、雨水が滴って服を濡らした。侍従が天皇に手拭いを渡すと、天皇は左手で帽子を傾け、右手で顔を拭った。侍従が手拭いを受けて絞ると雨水が瀧のようだった。天皇は馬から降り、雨中に立って統監すること数十分であった。天皇は乙川台より半田町雁宿山の高地に馬を進めた。時に雨が止んだり降ったりした。天皇は顔に注ぐ雨を手ずから払いつつ両軍交戦の状況を統監した。統監を終えて半田大本営に戻り、昼食をとって名古屋に向かった。 当時官報に掲載された記事によると、天皇は前日から軍艦に乗って海戦を統監していたので疲労していたはずだが、午前8時30分から11時30分まで少しも休まず雨中に統監の労を執った。これを拝観した多数の臣民は「三軍の労苦を分かち遊ばせらるる至仁・至聖・允文・允武の盛徳には感泣悦服せざる者あらざりけり」ということだった。豪雨の中、頭巾も被らず演習を統監した明治天皇の勇姿は国定教科書に掲載され、全国に知れ渡った。たとえば1920年文部省発行「尋常小学修身書 児童用 巻四」では「明治二十三年愛知県で大えんしふのあつた時、明治天皇ははげしい雨のふるなかで、へいしと同じやうに御ずきんもめされずに御統監になりました」という記述であった。
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